(『韓国歴史地図』から抜粋)
朝鮮で開港(開国)が始まると、清と日本の商人によって、農民の生活は困難になっていった。
両国の商人は、米などを収穫期以前に買い込み、物価上昇をまねいたのである。
困難に直面した農民たちの間には、『東学』が急速に広まった。
東学とは、西学(キリスト教)に対抗して、民間信仰に儒教・道教・仏教を取り入れて打ち立てた、新興宗教である。
古阜(コブ)は、全羅道の中でも最も肥沃な地域である。
郡守の収奪に耐え切れなくなった古阜の農民は、1894年1月10日に官庁を占領し、郡守の処罰を要求した。
ここから、『東学農民運動(甲午農民戦争)』が始まった。
派遣された調査官が反乱の指導者を処刑すると、農民たちは蜂起した。(第一次の蜂起)
農民軍は官軍を撃破し、全羅道と全州を占領した。
清軍と日本軍は、これを見ると農民軍鎮圧を名目にして、軍隊を派遣した。
日清の軍事行動を見た朝鮮政府は、農民軍の要求を入れて『全州和約』を結んだ。
農民軍は自治機関を設置して、改革を実行に移した。
清と日本は軍隊を撤退させず、ついに戦争を始めた。
これが、『日清戦争』である。
勝利した日本は、朝鮮の内政に干渉し、朝鮮の制度を変えていった。
これに対し、農民軍は再び蜂起した。(第二次の蜂起)
しかし農民軍は日本軍に敗れ、指導者たちは処刑された。
(2013年4月13日に作成)
(『朝鮮近代史』姜在彦著から抜粋)
1894年の『甲午農民戦争』は、朝鮮最大の穀倉地帯である全羅道・古阜郡の民乱に端を発して、一大農民蜂起に発展したものである。
当時の古阜郡の郡守は、閔氏一派(閔妃の派閥)の趙秉甲であった。
趙秉甲は、人民に賦役・雑税を強要して私腹を肥やし、怨嗟の的になっていた。
高い水税を課したり、横領した税米の不足分を農民から再徴収したりしていた。
そして、抗議した農民は「東学徒」のレッテルを貼って弾圧した。
古阜郡で教師をしていた全琫準は、農民たちから深い信望を集め、政府が禁じていた東学に加盟していた。
彼の父・全彰赫は、民訴の代表として趙に陳情したが、弾圧に遭い杖殺されていた。
1894年2月15日に、全琫準は1000名の農民を指揮して官衙を襲った。
趙は逃亡し、農民たちは武器を奪取し、不当に集められていた税米を農民に返した。
これに対し朝鮮政府は、李容泰を派遣して事態の収拾にあたらせた。
李は、800名の兵を率いて乗り込み、すべての責任を農民側に転嫁した。
蜂起した農民を「東学徒」として捕縛し、住居を焼いて財貨を掠め取り、婦女子に暴行を働いた。
これを見た全琫準らは、4月下旬ごろに決起文を各地に回し、5月4日には数千人の農民が武器を持って集結した。
農民軍は白山を拠点にし、全を大将にした。
重要なのは、彼らがソウルに進撃して『根本的な改革を実現させようとした事』である。
農民軍は厳格な規律を保ち、いたる所で人民に歓迎され、拡大していった。
全羅道監司の金文鉉は、農民軍と戦ったが惨敗した。
(黄土峠=黄土山見の戦い)
農民軍が長城方面に進撃したところ、政府軍と戦闘になり勝利した。
(長城の戦い)
黄土峠、長城と連勝した農民軍は、5月31には全羅道の首府である全州に入り、これを無血占領した。
「全州城を農民軍が占領した」という報せは、朝鮮政府をおののかせた。
朝鮮政府は6月1日に、清国に武力干渉を要請した。
彼らはまたも清国にすがり、地位を守るために売国行為に出たのである。
朝鮮の要請を受けて、清の北洋大臣・李鴻章は、丁汝昌の艦隊を派遣して、聶士成の率いる900余名の軍隊も上陸させた。
それに先立って6月7日には、日清間の天津条約にしたがって、それを日本側に通告した。
日本は、清国から通告をうける前の6月2日には出兵を決定し、5日には大本営を設置して動員令も下していた。
そして大鳥圭介・公使は、420名の陸軍を率いて、6月12日に仁川に上陸した。
続けて大島義昌・少将の率いる6千名も上陸し、ソウル・仁川一帯を占領した。
このように、閔氏一派の清国への出兵要請は、招かれざる客(日本軍の出兵)という重大な結果を招いた。
朝鮮政府は、農民軍と和解する事を決め、6月10日に農民軍の改革案を全面的に受け入れて『全州和約』を結んだ。
この改革案は、次の内容だった。
① 東学徒と政府の間にあるしこりを洗い流す
② 腐敗した官吏を厳罰に処す
③ 横暴な富豪や不良な知識人を罰する
④ 奴婢文書を焼き捨てる
⑤ 賤人たちの待遇を改善する
⑥ 若い寡婦の再婚を許可する
⑦ 規定外の税を廃止する
⑧ 門閥を打破し、人材本位に登用する
⑨ 日本と密通する者は厳罰に処す
⑩ 公私債を問わず、債務を無効にする
⑪ 土地は均等に分配する
この改革案は、封建制を否定する革命的なもので、朝鮮における平民革命の先駆をなすものだった。
全州和約が結ばれた翌日に、農民軍は解散して故郷に帰った。
だが完全には武装解除せず、いつでも再起できる態勢をとった。
さらに、改革を全羅道で執行するために、「執綱所」を設置した。
だが1894年7月末になると、日本は朝鮮を支配するために、ライバルの清に戦争を仕掛けた。(日清戦争)
全琫準らは、日清戦争が始まると再結集した。
全は、忠清道の東学組織と連合するために、東学の第2代教祖である崔時享の説得に努めた。
もともと東学思想は、人間教化を唯一の手段とし、武力行使には反対である。
崔時享も武力行使に反対で、甲午農民戦争の時も反対の立場をとり、「全琫準らは逆賊である」と言っていた。
だが、日清戦争が始まると崔らも態度を変えて、全琫準に協力する事にした。
こうして、全の率いる全羅道軍と、忠清道軍は合流した。
この連合軍は、11月に日本軍と戦ったが、敗北した。
死傷者の続出で12月の半ばには、連合軍の残存者は500名まで減ってしまった。
全琫準らは12月28日に逮捕され、ソウルの日本公使館に収監された。
そして翌年4月に処刑された。
全琫準らの蜂起は敗北に終わったが、甲午改革の原動力になったし、反日の義兵闘争の端緒ともなった。
(2015年1月31日に作成)