日本による内政干渉(乙未事変)・列強による収奪

(『韓国歴史地図』から抜粋)

東学農民運動の以後、朝鮮政府は近代的な改革に着手した。
(甲午改革のこと)

身分制度をなくし、政治・経済制度を改め、新たな教育制度を施行した。

しかし、日本は改革に干渉した。

このため朝鮮政府は、ロシアを引き入れて日本を牽制しようとした。

これを憂慮した日本は、1895年8月15日に、軍人達を王宮に侵入させて、ロシアと協力していた王妃である閔妃(ミン夫人)を殺害した。

これが、『乙未事変』である。

そして日本は、親日内閣を作り、改革を行った。

陽暦を採用し、郵便制度を実施した。
しかし、断髪令などは民衆の反発を買った。

両班・儒生(知識階級などのエリート層)は、王妃の殺害と断髪令に反対して、各地で義兵を起こした。

この様な中、朝鮮の親ロシア勢力は親米勢力と協力して、高宗(国王)をロシア公使館に移し、親日的な金弘集政権を倒した。(1896年2月)

国王不在の混乱に乗じた列強諸国は、先を争って国内の利権を奪っていった。

「鉄道敷設権」「鉱山開発権」「森林伐採権」「電気・電話の敷設権」などが、安く外国の手に渡った。

アメリカ人資本家が権利を得た「雲山金鉱」は、朝鮮の金生産の4分の1を占めていた。

多くの金が、海外に流出した。

鉄道は、結局はすべてが日本の手に渡った。

日本は1899年に、ソウル~仁川間に最初の鉄道を開通させた。

鉄道敷設の際は、多くの農地が奪われ、農民は工事に徴発された。

義兵たちは工事を妨害したが、日本は妨害した人々を処刑した。

(2013年4月13日に作成)


『韓国史 李氏朝鮮末期~日韓併合まで』 目次に戻る

『韓国史』 トップページに戻る

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く