朝鮮戦争② 中国軍の参戦

(『朝鮮戦争・下巻』歴史群像シリーズ61から抜粋)

朝鮮戦争が1950年6月に始まると、9月下旬にアメリカ政府は、「かなりの中国軍が鴨緑江(朝鮮と中国の国境の川)の北岸に集結している」との情報を入手した。

だが38度線を越えれば中国軍が介入してくるかもと恐れながらも、ダグラス・マッカーサー(国連軍の司令官)に対して北進を許可した。

アメリカ政府は、「中国軍の大規模な介入はない」と判断したのである。

実際に、10月9日にダグラスに対し「中国軍が介入しても現任務を続行せよ」と指令している。

1990年代に入ってから、ロシアのエリツィン大統領が、旧ソ連が保管してきた朝鮮戦争関連の極秘文書を中国と韓国に引き渡した。

その文書によると、金日成はソ連とばかり連絡を取っていて、中国側が朝鮮戦争の計画を正式に知らされたのは、開戦1ヵ月前の1950年5月中旬だったという。

しかも開戦後も8月中旬までは、中国軍・総参謀部が作戦上の助言をしても、金日成は聞く耳を持たなかった。

だから大敗北を喫してから慌てて支援を求めてきた北朝鮮に対し、中国の首脳たちは冷ややかだった。

実際に、9月末に金日成が援軍を求めた時、毛沢東は断っている。

しかしソ連のスターリンから「戦争を恐れるべきではない。戦争が不可避なら、今した方が良い」と説得され、沢東はこれに応じ、ソ連からの援助を条件にして軍隊の派遣を決意した。

毛沢東は、朝鮮半島でアメリカが勝利する事は、中国の安全保障上で問題だと見ていた。
そして、1950年10月2日から政治局・拡大会議を召集した。

政治局・拡大会議が始まると、毛沢東は参戦を主張し、「ソ連は空軍の支援を約束している」と紹介し、会議を出兵の方向に向かわせた。

そして10月15日を中国軍の出動の目安とする事が決定した。

同日の夜に毛沢東は、ソ連の指導者スターリンに打電し、「義勇軍の名義で朝鮮に派兵するのを決定した」と伝え、ソ連空軍の出動を正式に要請した。

しかし翌3日になると、米軍がまだ38度線を越えて北上していない事が明らかになり、「参戦するかどうかを再検討すべきだ」という意見が多数出た。

そこで政治局・拡大会議が続行される事になったが、林彪、高崗、陳雲ら多くの中国共産党・幹部は参戦に反対し、次の理由を挙げた。

① 中国は長年にわたる内戦の傷が癒えていない

② 台湾やチベットが統一されておらず、約100万人の国民党軍の
  残党もいる

③ 広範な新しい解放区では、土地改革が未完成である

④ 中国軍の武器装備は、米軍にはるかに及ばない

⑤ 長年の内戦を終えたばかりで、兵士に厭戦気分が蔓延している

林彪が総司令官を務める第4野戦軍は、解放軍(中国共産党軍)の中でも最強で、朝鮮戦争に参戦する場合は第1陣として出動することになっていた。

その林彪や、周恩来・首相らが慎重論を採ったため、参戦派の毛沢東は孤立し、参戦の決定は覆された。

毛沢東は参戦を力説したが、その理由は次の5つを挙げた。

① トルーマンの新たな声明は、朝鮮・台湾・インドシナの3ヵ所での
  軍事介入を決定したが、それは中国を包囲して侵略する現れである

② 米軍が朝鮮半島を完全に制圧すれば、中国は1000kmにわたる
  朝鮮との国境を防御できなくなる
  さらに旧満州に集中する工場施設(ほとんどは日本が支配していた
  時に造ったもの)の防御をするため、大兵力を駐屯させなければ
  ならなくなる

③ 米国との交戦が不可避であれば、早いほうが良い
  3~5年後に戦えば、敵陣営の日本とドイツも復興してくる
  ため不利になる

④ 朝鮮戦争が終わる前に参戦しないと、出兵の大義名分を失ってしまう

⑤ 米軍は世界各地に分散しており、その重点はヨーロッパにあるため、
  朝鮮に振り向けられる兵力は限定的だ

そして毛沢東は、米軍と全面対決するのではなく、義勇軍の出動に限定して、米軍の鴨緑江への進出の阻止を最重要目的にする、と説いた。

沢東は多数派工作も行い、林彪のライバルである彭徳懐を呼び出して味方にし、さらに鄧小平らを味方にし、周恩来も説得した。

そして10月5日の会議で、再び参戦を決定させた。

この会議では、林彪がソ連での病気療養を申し込んで許可され、代わって彭徳懐が参戦軍の総司令官に任命された。

10月8日に沢東は、「人民義勇軍の設立に関する命令」を発布し、「東北国境防衛軍を義勇軍に改編して、朝鮮に出動させよ」と命じた。

中国の正規軍なのに、なぜ「義勇軍」と名付けられたのか。

それは副首相の黄炎培が、「民間的な色彩のある義勇軍を使った方が、米中の全面戦争を避けられる」と、毛沢東に提案したからだった。

10月8日に、周恩来・首相は療養に入る林彪と一緒に、飛行機でモスクワに向かった。

だがスターリンはモスクワに居なくて、恩来らは黒海沿岸にあるスターリンの別荘に向かった。

9日に恩来とスターリンの会談が行われたが、中国側にとって青天の霹靂となった。

スターリンは中国本土の領空防御では協力を約束したが、朝鮮半島へのソ連空軍の出動は、既定の約束を覆して拒否したのである。

スターリンは国連軍が北朝鮮まで進撃してきている現状を見て、「金日成を中国に亡命させたらどうか」とまで提案した。

周恩来はその事を直ちに本国に電報で報告し、「出兵問題を再考してほしい」との自らの意見も添えた。

慌てた毛沢東は、11日に急遽、彭徳懐を呼び戻して、12日には「出動を中止する」と発布した。

中国政府は12日の深夜から、参戦問題を再び政治局の会議で討議した。

国連軍の38度線の突破、マッカーサーの中国を挑発する言論を見て、大半の幹部は「アメリカの次のターゲットは中国である」と考えていた。

だから3度目の参戦決定が行われた。

散会後の13日早朝に、毛沢東はスターリンに打電し、「ソ連空軍の援護がなくても出兵する」と伝えた。

毛沢東は17日に朝鮮へ出兵するよう指示したが、この時も義勇軍の首脳たちは「出兵を延期すべきだ」と提案した。

それを受けて沢東も迷いを生じ、「出兵を数日延ばす」と指示し、18日にまたまた政治局・拡大会議が開かれた。

ここで「弓につがえられた矢を射るほかない」との合意に達し、4度目の参戦決定が行われた。

そして19日の夕方に、3つのルートから義勇軍は朝鮮入りした。

以上で分かるように、中国の出兵は再三の動揺を経たものだった。

中国の首脳部は上記したとおり、会議して1950年10月2日に、参戦の最初の決定を行った。

その日の夜に周恩来・首相は、インド大使と会見し、「米軍が38度線を越えて北上したら、我々は座視しない」とのメッセージをアメリカ政府に伝えるように依頼した。

このメッセージを受け取った米国務省は、中国が虚勢を張るものとして、真剣に取り合わなかった。

CIAもホワイトハウスに提出したレポートで、「中国軍に動きは見られるが、朝鮮に干渉してくる証拠はない」として、中国軍が出てくるのを否定した。

そして10月15日にウェーク島で行われた、ハリー・トルーマン米大統領とダグラス・マッカーサー元帥の会談では、ダグラスはこう述べた。

「中国軍が派遣できる兵力は5~6万人しかなく、空軍も持っていない。もし出てきたら大規模な殺戮に遭うだろう。」

このダグラスの発言の4日後(10月19日)に、中国軍は鴨緑江を越えて参戦した。

しかも最初の2ヵ月あまりは、国連軍に勝利し続けたのである。

1950年10月19日に、彭徳懐の指揮する中国軍の先遣部隊は、鴨緑江を渡って北朝鮮に入った。

この行軍は、夜間に限定し、偽装を厳重に行っていた。

参戦した中国軍は、朝鮮入りに際して徹底した隠密行動をとった。

ある中国兵捕虜の証言によると、「夕方7時から朝3時まで行軍し、朝5時までに軍馬と装備の偽装を完成し、対空遮蔽を終了した。次の宿営を準備する部隊だけが朝から移動した。」という。

10月19日に国連軍は、平壌を占領した。
そこで彭徳懐は、防御で国連軍を阻止するのは困難と判断し、短切な打撃で韓国軍3個師団を殲滅しようとした。

10月25日に中国軍は攻勢を開始し、北朝鮮軍を追撃してきた国連軍と戦い始めた。

だがアメリカ第8軍は、中国軍の参戦はないと考えていて、国連軍の北進を続けさせた。

その結果、韓国軍も米軍も大きな損害を受けた。

11月1日になって、第8軍はようやく中国軍の介入を認め、清川江への後退と防戦への転移を命じた。

各部隊は後退を始めたが、アメリカ第1騎兵師団・第8連隊は退路を遮断され、1個大隊が雲山で壊滅した。

中国軍の攻勢は雲山、温井、煕川に限定されており、別の場所で進軍した韓国第7連隊は10月26日に鴨緑江まで到達した。

ところがその頃、温井では韓国軍が中国軍に撃破されていた。

第7連隊は孤立状態となり、退却を始めたが、中国軍に包囲され散り散りになった。

11月5日になると、中国軍の攻勢はピタリと止んだ。

それは、主力軍の到着するのを待つためだった。

この頃ダグラス・マッカーサー元帥は、中国軍の進入と補給を阻止するため、鴨緑江にかかる橋の爆破を企図した。

11月6日にアメリカ本国政府の許可が出たので、8日から爆撃が開始された。
この時、初めてジェット機同士の空中戦が行われた。

ダグラスは満州(中国の東北部)への爆撃も要求したが、本国政府は拒否した。

一方、北朝鮮ではゲリラ部隊の活動が活発化していた。

彼らは補給線や通信線の切断、食糧などの強奪を行い、米韓軍は対応に追われた。

国連軍の総司令部は、中国軍の参戦を11月9日になって、ようやく公式に発表した。

韓国軍は早くから「中国軍が参戦してきている」と伝えていた。

しかし総司令部は、その情報を否定し続けた。
それは米軍が(マッカーサー司令官が)「中国軍が介入してくる事はない」と盲信していたからだ。

『秘史 朝鮮戦争』の著者I・F・ストーンは、「国連軍・総司令部は、中国軍の介入を否定し続け、関連の報道をしなかった」と疑問を呈している。

当時に韓国軍の参謀総長だった丁一権は、著書『原爆か休戦か』に驚きの話を書いている。

「2通の手紙を見た。

 1通はマッカーサー宛の、李承晩・大統領からの私信だ。

 その内容は、『中国軍が介入してくる可能性は高いが、
 トルーマン大統領との会談でこの可能性を肯定しないように』
 とのお願いだった。

 もう1通はマッカーサーからの返事で、『承知しました。全く同感
 です。中国を叩く機会は今をおいて他にはない』との内容だった。

 さらに李承晩・大統領は、私にこう語った。

 『マッカーサーも私も、中国は出てくると見てきた。それなのに
  マッカーサーが中国軍介入の可能性を否定したのは、トルーマンの
  余計なブレーキを防ぐためだった。』」

50年11月21日に、アメリカ第7師団は恵山鎮を占領し、国連軍としては2番目に鴨緑江に達した。

ダグラス・マッカーサーは、11月24日に「クリスマスまでに戦争を終わらせる」と言って、総攻撃を命じた。

だが、その作戦は米軍の第8軍と第10軍の間に80kmもの空隙を生んだ。

11月25日に、後続部隊が集結を終えて36個師団となった中国軍が、大攻勢を始めた。

怒涛の如く進撃し、国連軍の陣地は次々と崩壊した。

中国軍は、米軍にできた空隙に2個軍を突入させ、要衝である清川江付近の三所里を占拠した。

これにより第8軍は総崩れとなり、2週間で300kmも後退する事になった。

11月29日に国連軍は、北朝鮮で最も東西の幅が狭い粛川~元山の線で守ると決め、各部隊はその線まで後退した。

ところが12月3日に、その防衛線のうち中央部の成川が突破され、中国軍がなだれ込んで来た。

ここに至ってダグラス・マッカーサーは、38度線への総退却を決断した。

12月5日に国連軍は、平壌の主要施設を徹底的に破壊してから、後退を始めた。

300万人の北朝鮮住民が難民となり、南に移動を始め、氷の浮かぶ川を渡る列は延々と続いた。

国連軍は平壌を放棄して南に逃げたが、この時に国連軍と韓国軍を合わせて3.6万人の損害を出した。

米軍の合同参謀会議・議長だったブラッドレーは、回想録で「米軍は史上最も屈辱的な失敗をした」と認めている。

退却中に、第8軍の司令官であるウォルトン・ウォーカー中将は事故死した。

一方、海上からの撤退を始めたアメリカ第10軍は、193隻の船舶を使い、将兵10.5万人や避難を希望した北朝鮮住民10万人を南へ運んだ。

東京にいるダグラス・マッカーサーは、米軍による中国本土の攻撃を本国政府に要請し、さらに台湾軍の参戦も要請した。

ワシントンの本国政府は、これを拒否した。

中国軍は38度線まで来るとしばらく停止したが、次の攻勢への準備を始めた。

そして12月31日に中国・北朝鮮軍は、ソウルに向けて進軍を始めた。

地雷原や鉄条網をものともせず、倒されても倒されても突撃を繰り返して、国連軍は各所で分断・包囲された。

こうして1951年1月3日に、国連軍は再び後退を始め、4日にソウルを放棄した。

この時も中国・北朝鮮軍の攻勢は、1月15日にピタリと止んだ。

中国軍が朝鮮戦争で使った戦術は、まず「人海戦術」である

1950年10月末までに30万人を朝鮮に送り込んだが、それはマッカーサーの予想(彼がトルーマン大統領との会談で語った予想)の5倍以上だった。

11月末には45万人に達し、国連軍と韓国軍の合計よりも上回った。

装備で劣る中国軍は、兵数で対抗するしかなかった。

次に挙げられる戦術は、「運動戦」である。

これはゲリラ戦法に起源し、攻撃と流動性を強調したもので、短期決戦や長距離移動をモットーとし、1つの地点に留まるのを嫌う。

中国軍が50年10月下旬から51年4月までに行った、5波の進攻作戦は、運動戦の模範例とされた。

3番目に挙げられるのは、「包囲殲滅」である。

これは拠点の奪取よりも敵軍の殲滅に重点をおき、敵軍の一部を分割させて包囲するものだ。

中国軍は何度も精鋭部隊を敵の後方に潜入させ、退路を断ってから四方八方からの総攻撃をした。

1951年初めに米軍第8軍の司令官を引き継いだマシュー・リッジウェイは、中国軍の特徴を研究した結果、「後方支援がほとんどない中国軍は、攻勢に耐えていれば1週間で食糧も弾薬も不足する」と総括した。

さらに中国軍の包囲殲滅戦法についても、「後方に隙間を与えなければ怖くない」と分析した。

こうして国連軍は作戦を変え、徐々に優位となっていく。

中国軍は51年2月(第4次)と、同年4月下旬(第5次)に大攻勢の波を展開するが、国連軍は攻勢が鈍るのを待ってから反攻して勝利した。

特に第5次では、中国軍に8.5万人の損害を出させた。

1951年1月13日に、西欧諸国は朝鮮戦争の即時停戦を国連に提議した。

休戦をした上で、朝鮮から外国軍を撤退させ、台湾問題と中国の国連加盟を討議する、という内容であった。

米国にとっては敗北に他ならない内容だったが、米国はこれに賛成票を投じた。
中国との対決に自信を失っていたのである。

中国は1月17日に回答をよこしたが、「休戦に同意するが、中国の国連加盟を即時に認めるのが条件である」とした。

米国はこれを見て、中国を侵略国と議決するように国連で提議した。

当時、国連軍は、中国・北朝鮮軍に敗北を重ねて、部隊の士気は極度に低下していた。

しかし中国軍は攻勢を止め、米軍の第8軍は北上を始めた。
これを「サンダーボルト作戦」という。

中国軍の抵抗は微弱で、1月26日には米軍は氷原~利川の線に進出した。

朝鮮での中国軍の攻勢が止まると、それが国連にも反映されて、1月下旬に国連総会は「中国は侵略国である」と規定した。

第8軍は、中国軍との10日間に及ぶ激戦の末に、2月10日には漢江の線をほぼ回復した。

2月11日に、中国・北朝鮮軍は攻勢に転じた。(第4次の攻勢)

これは正月攻勢(51年1月の第3次攻勢)よりも戦力を集中し、深く進出しようとするもので、総力を挙げた攻勢であった。

これに対し、国連軍も総力をもって対抗し、積雪寒冷の中で両軍の激闘が続いた。

1週間ほどで中国・北朝鮮軍の攻勢は衰えをみせ、撃退された。

国連軍はここまで、中国軍に連戦連敗で、中国軍を神秘的な軍隊と見るほどに恐怖感を抱いていた。

それがこの2月の撃退で自信を取り戻し、弱点も見抜く事ができた。

米軍の第8軍は、51年2月20日に攻勢に転じて北進を始めた。

その後、ソウルの奪回を図る「リッパー作戦」が採用され、さらに北進する事になり、ソウル~春川~38度線南側をつなぐ線「アイダホ・ライン」を目標にした。

ソウルまで進んでいったところ、ソウルからほどんどの中国・北朝鮮軍は撤退しており、3月15日に韓国軍がソウルを奪回した。

これに勢いを得た第8軍は、3月末に「アイダホ・ライン」を確保した。

この時点で、米国のハリー・トルーマン大統領は「38度線を回復したし、国連軍はその使命を果たした。これ以上の北進は戦争を泥沼化させる。目下の政策は、中国を交渉の椅子に着かせることだ」と考えた。

そして米国務省は、休戦を呼びかける大統領声明を起案した。

ところが3月24日に、ダグラス・マッカーサーはワシントンとの事前協議もなしに声明を発表する。

その内容は、「国連が、国連軍の制限事項を撤廃すれば、中国を軍事的に崩壊させ得る」というもので、威嚇的なものだった。

ダグラスは、彼の北進計画に基づき、38度線の北側20kmの線を「カンザス・ライン」と名付け、そこを目指す作戦を発令し、4月9日に進軍が始まった。

その2日後の4月11日に、ハリーはダグラスを国連軍総司令官から解任した。

ダグラスの後任は、第8軍・司令官のマシュー・リッジウェイとなった。

ダグラスの解任後も、米軍は北進を続けて、カンザス・ラインに到達し、4月19日には次の目標線である「ユタ・ライン」の占領した。

ところが4月22日に、中国・北朝鮮軍が攻勢を開始した。(第5次の攻勢の第1段階)

この攻勢は、得意の山地戦に持ち込み、一気に決着をつけようと企図したものだった。

国連軍は後退し、4月末にはソウル北側~襄陽北側の「ノーネーム・ライン」まで下がった。

米軍は反撃に転じたが、5月15日に再び中国・北朝鮮軍の攻勢が始まった。(第5次の攻勢の第2段階)

国連軍は一時は後退したが、盛り返して6月下旬にはカンザス・ラインより少し先まで占領した。

5月の戦闘では、国連軍の損害は3万5770人で、中国・北朝鮮軍は8万5千人ほどだった。

中国・北朝鮮軍は、この合戦への参加兵士は30万人だったから、3分の1近くの損害を出したわけだ。

これに中国政府の首脳部は衝撃を受け、ソ連も交渉のテーブルに着くよう中国に勧めた。

6月23日にマリク・ソ連代表は、国連の安保理で休戦の提案を行い、中国も人民日報を通じてこれに同意した。

もう一方の米国も、すでに休戦の決定を行っており、マリク提案に乗った。

そして米国政府は、国連軍総司令官のマシュー・リッジウェイに「その場で停止せよ」と指令した。

マシューはその訓令に基づき、6月30日に金日成と彭徳懐あてに休戦交渉を提案し、中国・北朝鮮側はこれに同意した。

このあと中国軍は、戦術を大転換させて再び盛り返す。

北朝鮮軍と中国軍の一部が、山岳地帯で坑道を掘って防御に成功したのを知ると、それを全軍に紹介し、52年春までの半年間に190kmにわたる坑道を掘って防御を固めた。

これで国連軍は北進できなくなった。

53年7月の休戦協定に持ち込むことが出来たのは、坑道にあったと言っても過言ではない。

(2020年3月22&27~28日に作成)


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