第二次大戦後の、南北統一への流れの概略

(『韓国歴史地図』から抜粋)

朝鮮戦争の後、李承晩・政権は徹底した反共・反北朝鮮の政策を採った。

1954年にスイスのジュネーブで、朝鮮の統一を扱う国際会議が開かれたが、成果無く終わった。

李承晩・政権は、「北進統一論」を主張して、北朝鮮と対話すら行おうとしなかった。

この時期には、進歩党が唯一、平和統一論を主張したが、政府の弾圧を受けて党首の曺奉岩は死刑になった。

1960年4月の革命で政権を獲った民主党は、国連の監視下での総選挙による南北統一を主張した。

これに対して、学生と進歩勢力は平和統一を主張し、南北協議を行おうとした。

民主党政権は、南北協議には否定的だった。

61年5月にクーデターを起こして政権を獲った朴正煕らは、反共を国是に掲げて、南北の統一に関する一切の議論を禁止した。

60年代後半に、北朝鮮のスパイが韓国に相次いで侵入すると、反共から進んで「勝共・滅共」がスローガンになった。

その一方で、南北政権は秘密裏に対話を進め、1972年7月4日に『南北の共同声明』を発表した。

これにより、南北の対話が本格化したが、南北の政権の強化に利用されただけで終わった。

以後は、南北の両政府は、別々の統一案を主張した。

韓国は、民間交流と経済交流に重点を置いて、「1民族1国家2政府」の民族共同体案を主張した。

北朝鮮は、まず政治問題の解決を重視し、「1民族1国家2制度2政府」の連邦共和国案を主張した。

1980年代の半ば以後は、南北の交流が広がった。

80年代の末からは、民間の統一運動が盛んになり、議論の活性化に大きく寄与した。

1990年には南北首脳会談が開かれて、91年には『南北の基本合意書』が採択された。

この合意書では、「南北和解と相互不可侵」「南北の交流と協力」が明文化された。

南北の対話は、北朝鮮の核開発疑惑によって、しばらく中断した。

しかし、98年の金大中政権が掲げた太陽政策で、再び活気を帯びた。

98年には、金剛山の観光事業により、韓国の民間人も北朝鮮の地を踏むことが可能になった。

2000年6月には、ついに金大中と金正日の間で、「南北のトップの会談」が実現して、『南北の共同宣言』が発表された。

03年からの盧武鉉政権も、太陽政策を継承した。

6カ国協議が続けられたが、アメリカと北朝鮮の相互不信に阻まれて、進展は見られなかった。

(2013.10.21.)


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