(以下は『韓国歴史地図』から抜粋
2013年5月1日に作成)
米軍は、朝鮮半島の北緯38度線の以南を占領すると、資本主義体制を導入した。
しかし朝鮮の社会状況を考慮しなかったため、民衆と衝突した。
朝鮮が日本の支配から解放された後、農民や労働者は日本人が放棄していった土地や工場を引き継ぎ、自主管理した。
米国は、このような自主管理を一切認めず、土地や工場を押収して、『新韓公社』を設置してそこで管理した。
朝鮮が日本の支配から解放された当時、最も大きな社会問題は「農地問題」であった。
全農民の半数は小作農で、小作農たちは50%を超す小作料に苦しめられていた。
農民は解決を要求したが、米軍の軍政は「小作料を33%に下げる」などで対処しようとした。
これに対し農民は、土地の再配分などを主張して反発した。
米軍の軍政は、1946年1月に『米穀の配給制』を実施し、配給に必要な米を強制的に徴収した。
麦などの夏に収穫するものまで強制的に徴収したため、食料不足が深刻化した。
一方、北朝鮮では1946年3月に、土地の再配分が実施された。
これを知った韓国の人々は、ストライキなどで米軍の軍政に対決した。
軍政側は、「ストは朝鮮共産党が操っている」として、朝鮮共産党の幹部を逮捕した。
朝鮮労働組合はゼネストで対抗し、10月には民衆の蜂起に発展した。
しかし民衆蜂起は、米軍と右翼団体によって武力で鎮圧された。
(以下は『毎日新聞 2013年10月22日』から抜粋
2026年11月1日に作成)
🔵1948年の四・三事件
韓国の済州島では、1948年4月3日の民衆の武装蜂起をピークに、「軍による弾圧と虐殺の嵐」が吹き荒れた。
この『四・三事件』では、2.5~3万人が死者・行方不明者となった。
だが韓国の歴代の軍事政権は、「この事件は共産主義者の暴動だった」と断定し、島民たちは沈黙を強いられ続けた。
1980年代の後半になって民主化が進むと、ようやく事件の真相究明を求める声が上がった。
「済州四・三研究所」が設立され、被害者の口述記録や遺骨の発掘が進められている。
『四・三特別法』がつくられ、政府が被害者の申告を受け付けて、1.5万人が届け出た。
🔵金東椿(聖公会大学の教授)の四・三事件の解説
四・三事件は、東アジアで冷戦構造が形成される過程で、南北分断の固定を図る選挙(米国主導の軍政が行おうとした選挙)に反対して起きた側面がある。
世界史的に見れば、韓国は日本の代わりに分断された。
その犠牲の被害が集中したのが、済州島だった。
この事件(民衆の蜂起と、軍の弾圧・虐殺)は、「朝鮮に統一国家を作らねばならない」という韓国人の熱望の表出から起きた蜂起を、軍の虐殺で鎮圧されたものだ。
だが、反乱に加わった民衆の後ろに北朝鮮がいたとの考え(政府側の洗脳)から、多くの人が自由になれていない。
朝鮮統一を熱望する声は、済州島だけでなく、本土にもあった。
1946年には大邱(テグ)で同種の暴動が起きている。
大邱では簡単に鎮圧されたが、済州島はソウルから最も離れた島なので、鎮圧されずに拡大した。
四・三事件の本当の意味を理解している人は、韓国人の10%にも満たないだろう。
歴史への無理解は、韓国人にもある。
韓国の済州島と日本の沖縄は、米国の東アジア政策で犠牲になった。
沖縄は米軍の基地で犠牲となり、済州島は米国の支持を得ようとした李承晩・大統領の鎮圧で犠牲となった。