(『韓国歴史地図』から抜粋)
日本が降伏すると、朝鮮半島には米軍とソ連軍が進駐し、北緯38度線で南北に分割して占領した。
1945年12月にモスクワで、朝鮮問題を処理するために、米・英・ソの3ヵ国の外相会議が開かれた。
そして、「最長で5年間、信託統治をする」という事で合意した。
朝鮮では、この統治に対して、右翼は反対し左翼は賛成した。
46年3月にソウルで、米ソの共同委員会が開かれ、どうやって朝鮮を信託統治するかを話し合った。
だが、米国は「あらゆる団体を参加させよう」と主張し、ソ連は「信託統治に賛成する団体だけを参加させよう」と主張したため、決裂してしまった。
決裂した直後の46年6月に、親米の李承晩は「38度線以南で、単独政府を樹立する」と主張した。
これに韓国民主党は賛成し、金九らの臨時政府出身者や中道派・左翼派は反対した。
47年5月には、2回目の米ソ共同委員会が開かれた。
しかし、成果がなく終わった。
これにより、米国は処理を国連に委ねた。
米国が主導権を持っていた国連は、「人口比例による南北の総選挙を行って、政府を作ること」を決議した。
しかし、ソ連はこれに反対し、国連調査団が北朝鮮に入るのを拒否した。
このため国連は、南朝鮮だけで選挙を行うことを決めた。
危機感を持った金九や金奎植らは、北側に対して、統一政府樹立のための協議を呼びかけた。
そして48年4月に、南北の政党団体が集まって会議をした。(南北会議)
この会議では、「米ソの撤収」と「南朝鮮単独での政府樹立に反対」で合意した。
だが、実行への具体案をまとめられなかった。
1948年4月3日に、南朝鮮の単独政府化に反対する済州島の住民が、武装蜂起した。
しかし、米軍や右翼団体に鎮圧され、多くの住民が虐殺された。
同年5月10日に、南朝鮮で単独政府を作るための総選挙が行われた。
単独政府をつくるのに反対した人々は、選挙をボイコットした。
選挙後に国会が開かれ、憲法が制定された。
そして李承晩が大統領となり、8月15日に『大韓民国(韓国)』の建国が宣言された。
韓国の成立を見た北朝鮮側は、9月9日に『朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)』の建国を宣言した。
(2013.5.1.)
(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
1943年12月にアメリカ・イギリス・中国が発表した『カイロ宣言』の中で、朝鮮の日本からの独立が保障された。
しかし、45年8月8日にソ連軍は朝鮮国境に近づいた。
(その後にソ連軍は北朝鮮に侵入した)
アメリカはソ連による朝鮮占領を防ぐために、38度線による分割を提案した。
(冷静に考えると、占領を防ぐために分割を提案するというのは、論理としておかしい。「朝鮮の半分はオレに寄こせ」というのがアメリカの言い分でしょう。)
アメリカの提案に、意外にもソ連が同意したため、朝鮮は分割占領される事になった。
アメリカ政府は、ホッジ将軍を南朝鮮に進駐させて、アメリカから帰国した李承晩による軍政を樹立させた。
ソ連は、ソ連軍とともに帰国した金日成を、北朝鮮のトップに据えた。
米ソの両国は、1945年12月の会談で、「5年を限度とする米・英・ソ・中の統治を経て、朝鮮を独立させる」と決めた。
しかし米ソは、独立後の構成をめぐって対立した。
そして48年8月に「韓国」の成立が宣言されて、9月には「北朝鮮」も成立した。
韓国では、日本の植民地時代に対日協力者だった者たちが登用された。
(2013.10.11.)