(『韓国歴史地図』から抜粋)
韓国と北朝鮮の対立は、どんどん激しくなっていった。
韓国は米国から支援を受け、北朝鮮はソ連から支援を受け、軍事力を強化していった。
朝鮮半島から米軍とソ連軍が撤収すると、両国の軍事力競争はさらに熾烈になった。
北朝鮮は、ソ連と軍事協定を結んだ。
韓国も、1950年1月に米国と軍事援助協定を結んだ。
1949年になると、両国間で大小の軍事衝突が相次いだ。
そして、50年6月25日に、北朝鮮の全面的な攻撃で、『朝鮮戦争』が始まった。
北朝鮮軍は、わずか3日でソウルを占領し、7月末には洛東江まで押し寄せた。
この戦争に対し国連は、韓国側に立って軍隊の派遣をする事を決議した。
決議に従って、米軍を主軸にした国連軍が参戦した。
(※当時の国連には、ソ連ら東側陣営はボイコット中で参加してません)
1950年9月15日の仁川上陸を契機に、国連軍が戦勢を逆転した。
しかし、中国軍が10月末に北朝鮮側で参戦すると、戦況は再び逆転した。
51年3月になると、戦線は38度線一帯で膠着状態になった。
世界大戦に拡大するのを憂慮した国際世論を受けて、ソ連が休戦を提案した。
アメリカが受け入れたため、休戦協議が始まった。
休戦協議は、2年以上も続いた。
その間も戦闘は続いており、多くの人命が失われた。
1953年7月に、休戦協定が締結された。
この戦争で、南北の朝鮮人の死者は300万人を超え、甚大な人的・物的損失をもたらした。
この戦争は、東アジアにおける冷戦の対立構造を決定づけた。
(2013年5月1日に作成)
(『中国の歴史を知るための60章』から抜粋)
アメリカのハリー・トルーマン大統領は、1950年1月5日に、『トルーマン声明』を発表した。
この声明で、「台湾を含む中国の領土に対しては、介入は一切しない」と表明した。
さらに同年1月12日に、アメリカのアチソン国務長官は、『アチソン・ライン』と呼ばれる安全保障のラインを発表した。
このラインは、アリューシャン列島→日本・沖縄→フィリピンへと引かれていた。
台湾、朝鮮半島、インドシナは、ラインの外側に置かれており、そこでの中国の主導権を認めた形であった。
アメリカは、中国がソ連陣営に加わらずに、米ソの中間に位置する事を望んでいたと考えられる。
毛沢東は、アメリカの記者に「米ソの中間に位置する中国」という『中間地帯論』を語っていた。
しかし毛沢東は、50年2月に、ソ連と『中ソの友好同盟と相互援助の条約』を結んだ。
これにより、中国はソ連側につき、東アジアにも冷戦構造が形成された。
毛沢東は、北朝鮮の支持、インドシナ独立、台湾解放、を打ち出した。
その一方では、北朝鮮の指導者となっていた金日成は、ソ連のスターリンに「朝鮮を統一するための戦争をしたい」と伝えた。
スターリンが「毛沢東の同意が条件だ」と答えたために、金日成は北京を訪れて、毛沢東に同意を求めた。
毛沢東はスターリンと相談した上で、「開戦に同意する」と伝えた。
フルシチョフの回想によると、スターリンと毛沢東は「アメリカは介入してこない」との意見で一致していたという。
そして1950年6月25日に、北朝鮮は韓国に攻め込んだ。
朝鮮戦争の始まりである。
トルーマン大統領は27日に、武力介入を命じて、台湾海峡に第7艦隊を派遣して、「台湾への攻撃を阻止する」と発表した。
トルーマン声明とアチソン・ラインは、反故にされた。
北朝鮮軍は快進撃を続けて、8月20日には最南端の釜山市を包囲して、朝鮮統一は目前になった。
だが、9月15日にアメリカ軍を主力とする国連軍が仁川に上陸すると、北朝鮮軍は敗退した。
10月下旬には、今度はアメリカ主導の国連軍が北上して、韓国側による朝鮮統一が目前になった。
毛沢東はこれを見て介入を決意し、10月25日に中国軍が参戦した。
同じ時期に中国は、ベトナムの独立戦争への介入も強化した。
国連軍は、中国が参戦してくると思っていなかったために、不意打ちにあって敗退した。
中国軍は快進撃して、51年1月にはソウルを占領した。
この後、国連軍が盛り返して、51年4月からは38度線で膠着状態に入った。
53年7月27日に、『休戦協定』が結ばれて、朝鮮戦争は終わった。
この戦争の死傷・捕虜者数は、中国は100万人、アメリカは17.3万人、国連軍全体(韓国を含む)では225万人になった。
この悲惨な戦争の結果、米中の間には「戦争を回避する暗黙の了解」が成立した。
54年に米仏は、中国が支援する北ベトナムの独立を認めた。
後のベトナム戦争でも、アメリカは北ベトナムへの地上攻撃は避けた。
(2013年6月18日に作成)
(『そうだったのか!現代史2』から抜粋)
北朝鮮は、韓国に侵攻する際に(朝鮮戦争を始める際に)、「南朝鮮が侵攻してきた。後退するように警告したが無視された。北朝鮮は反撃を加えつつある。」との虚偽の発表をした。
金日成は、侵攻の事前にスターリンと毛沢東に相談して、ソ連からは武器を、中国からは兵員の支援を受けていた。
(2014年1月4日に作成)