(『韓国歴史地図』から抜粋)
1948年8月に韓国の初代大統領となった李承晩は、社会改革は行わずに、自身の権力強化のみに力を注いだ。
50年5月の国政選挙では、李承晩に批判的で平和的な南北統一を主張する中道勢力が、大勝した。
これにより、現行の国会議員による間接選挙では、承晩は大統領に選出されるのが難しくなった。
そこで承晩は51年に、「大統領の直接選挙制」を核とする、憲法改正案を国会に提出した。
さらに、保守団体と右翼団体を集めて、『自由党』を結成した。
承晩は、「通常の方法では、大統領の直接選挙制は実現できない」と考え、官製デモ・暴力団・憲兵・警察を動員し、恐怖政治を行った。
さらに、戒厳令を布いて、改憲案を成立させた。
1952年8月の大統領選で、李承晩は再選した。
承晩は、秘書の李起鵬に自由党を掌握させた。
54年の国政選挙では、自由党は勝利したが、改憲に必要な3分の2の議席には達しなかった。
自由党は、承晩を再選させるために、「大統領の再任制限を無くす」とする改憲案を提出した。
(憲法では、大統領の任期は最長で2期となっていた)
しかし、改憲案は1票差で否決された。
すると自由党は、「四捨五入」という奇想天外な策を用いて、改憲案を可決に覆した。(四捨五入改憲)
朝鮮戦争の後、李承晩政権は徹底した反共・反北朝鮮の政策を採った。
1954年にスイスのジュネーブで、朝鮮の統一を扱う国際会議が開かれたが、成果無く終わった。
李承晩政権は、「北進統一論」を主張して、北朝鮮と対話すら行おうとしなかった。
この時期には、進歩党が唯一、平和統一論を主張したが、政府の弾圧を受けて党首の曺奉岩は死刑になった。
(2013.5.1.)