(『韓国歴史地図』から抜粋)
1960年の正・副大統領選挙では、自由党は李承晩と李起鵬を、民主党は趙炳玉と張勉を、候補に立てた。
ところが、趙炳玉は突然に病死した。
選挙では、自由党によって様々な不正が行われた。
このため、選挙後に各地で市民のデモが起きた。
4月11日に、デモに参加した高校生の金朱烈が、警察の催涙弾に当たり死亡して、警察は死体を密かに海に投げ込んだ事件が発覚した。
この事件の発覚もあって、デモは全国に拡がった。
そして国民は、李承晩の退陣を要求した。
李承晩政府は戒厳令を宣言して、軍隊を動員した。
警察の発砲により、数百名の死亡者が出た。
だが、国民の怒りはさらに大きくなり、軍もデモに同調する態度を見せた。
ついに、李政権の後ろ盾だったアメリカも李承晩を見放し、4月29日に李承晩は大統領を辞任した。
そして5月29日には、ハワイに亡命した。
この後、責任内閣制への改憲が実現し、選挙が行われて民主党が大勝利した。
大統領には尹潽善、国務総理には張勉が選ばれた。
しかし民主党は、旧派と新派に分かれて権力争いに没頭してしまった。
さらに、李政権下で不正蓄財をした人々を見逃し、北朝鮮との統一にも否定的だった。
このため、4月革命の理念は実現せず、翌年の朴正煕らの軍事クーデターに繋がってしまった。
(2013.5.12.)