(『韓国歴史地図』から抜粋)
日本が『文化政治』を掲げて、民族的活動を部分的に認めると、「青年会」と「教育振興運動」が活発化した。
青年会は、民族主義系と社会主義系に分かれた。
民族運動家が注力したのは、経済と教育であった。
『物産奨励運動』は、「国産品の愛用を通じて、自国の資本を育成しよう」という趣旨で、1922年末からスタートした。
しかし、価格上昇で企業家はもうかったが、企業の育成には繋がらなかった。
23年には、大学設立のために『民立大学期成会』が結成された。
しかし募金が集まらず、中断されてしまった。
20年に創刊された『朝鮮日報』と『東亜日報』などにより、言論活動が展開された。
1930年代には、識字普及と農村啓蒙運動が展開され、大きな成果を収めた。
1920年代に入ると、農民運動と労働運動も活発化した。
この運動は、「地主や資本家への経済闘争」と「日本に対する民族闘争」の両面性を持っていた。
1920年4月には、朝鮮初の労働・農民組織『朝鮮労働共済会』が創られた。
農民運動と労働運動は徐々に分かれ、労働運動は職業別・産業別になっていった。
20年代前半の農民運動は、主に小作人を中心に展開された。
彼らは、「小作料の引き下げ」と「小作権の保障」を求めた。
20年代半ばになると、参加する農民の数が増え、農民組合を中心に展開されるようになった。
農民組合も労働組合も、日本からの弾圧にあい、30年代半ばからは社会主義系と連携した非合法的な革命的組合となった。
(2013.4.18.)