バース党が権力を握り、エジプトとアラブ連合共和国を創る

(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)

1949年にクーデターで軍部が権力を握ると、リーダーのアディール・シシャクリーは52年に「アラブ解放運動(ALM)」を結成した。

しかし、54年2月にシシャクリー独裁政権は倒された。

この後、再び共和制議会が復活した。

54年に行われた選挙は、「今日までの選挙で最も自由だった選挙」と評されている。

この選挙では、伝統的な民族主義者が多数を占め、バース党は142議席中で22議席だった。

保守派と左派が拮抗し、シリア政局は不安的になった。

当時は東西冷戦が白熱しており、アラブ世界にも東西両陣営が影響力を持とうとしていた。

こうした中で、55年2月にトルコとイラクは英米の仲介で同盟を結びんだ。

そして、この同盟にパキスタンとイランも参加することで、『バグダード条約機構』が成立した。

この組織は、トルコを通じてNATOへ、パキスタンを通じてSENTOへと、繋がっていく。

この同盟により、シリアは孤立した。

そして、ナセルが率いるエジプトに傾斜していった。

エジプト大統領のナセルは、1955年4月のバンドン会議で、インドのネルー首相、ユーゴのチトー大統領と共に、『第三勢力』の表明をした。

(米ソの冷戦構造に加わらず、独自の道を行くと宣言した)

さらにナセルは、56年10月にスエズ運河を国有化し、それによって起きた第2次中東戦争でも外交的な勝利を収めた。

これによってナセルの名声は轟き、彼は英雄となった。

1957年末に、バース党がシリア政府の実権を握ると、バース党が主導して58年2月にシリアとエジプトの統合が成立した。

そして、『アラブ連合共和国(UAR)』が誕生した。

しかしUARの実現は、期待に反してバース党には打撃になった。

ナセルが、事実上シリアをエジプトの支配下にしてしまったからだ。

UARの議会600議席のうち、シリアには200しか割り当てられず、大統領や首相はエジプトが占めた。

すべての政党が解散させられ、バース党も例外ではなかった。

バース党の将校や下士官は次々と追放され、その数は1.1万人に達したという。

ハフェズ・アル・アサドは、バース党の序列の下位にあったため、パージ旋風に巻き込まれず、後にパージで生まれた空白を満たす機会を得た。

(2016年2月4日に作成)


シリア史 独立後~現在 目次に戻る