権力闘争が起きて、バース党の創設者はシリアを追われる

(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)

バース党は、党是としてアラブ民族の統一を主張しているため、「シリアは一地域にすぎない」との考えだった。

アフラクやビタールら党指導部は、エジプトやイラクとの統合を推進しようとしていた。

そこで、シリア第一主義の者たちと、権力を握りたい軍事委員会が結びついた。

党指導部と軍事委員会の対立は、世代間や出身階層の違いによっても強められていた。

アフラクやビタールは50歳代で都市出身者、委員会のメンバーは20~30代で農村出身者だった。

また、委員会のメンバーは、社会主義政策の断行とソ連との密着を主張していた。

1963年11月に、ビタールは首相の座を追われて実権を失った。66年にはシリアを追われてイラクに亡命した。

ビタールの後任は、アミン・ハフェズ将軍である。
彼は、その後に大統領になった。

一方、軍事委員会のウムラーンが63年末に副首相になり、ハフェズと対抗していった。

軍事委員会は全員一致を旨としていたが、ウムラーンは最年長であり(1922年生まれ)指揮官を自認していた。

64年12月に、ウムラーンはハフェズ打倒を呼びかけた。

委員会メンバーであるジャディードとアサドは、動かなかった。

敗れたウムラーンは、マドリード大使になり左遷された。

1965年末になると、今度はハフェズとジャディードが対立した。

ハフェズは反マイノリティのキャンペーンを展開し、ジャディード側にはマイノリティたちが付いた。

66年2月にジャディード派はクーデターを起こし、ハフェズらは追放となった。

アサドはジャディードを支持し、決定的な役割を果たした。

このクーデター成功を機に、スンニ派の大量追放が行われた。

アフラクとビタールは、イラクへ逃亡した。
こうしてバース党の創設者は、シリアを去ったのである。

アサドは国防相に起用され、バース党のナンバー・ツーにのし上がった。

1966年9月になると、軍事委員会のメンバーでドルーズ派のハートゥームは、ドルーズ地区に拠って中央政権に対抗しようとした。

ハートゥームを説得するためにアタシ大統領とジャディードらが赴いたが、ハートゥームは全員を逮捕し、ジャディード支持者の軍からの追放などを要求した。

アサドは「軍による空爆も辞さない」と表明し、この圧力でハートゥームらは瓦解し、ハートゥームはヨルダンへ亡命した。

この後、軍ではドルーズ派の排除が断行され、ドルーズ勢力は壊滅した。

(2016年2月6日に作成)


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