バース党とは

(『誰にでもわかる中東』『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)

バースとは、アラビア語で復興を意味する。

バース党は正式には、「アラブ復興社会党」という。

この党は、ミッシェル・アフラクとサラーフ・ビタールの2人のシリア人が1930年代初めに、パリの留学時代に出会ったことから始まった。

アフラクは1910年生まれのギリシア正教徒、ビタールは1912年生まれのスンニ派イスラム教徒だった。

2人はパリのソルボンヌ大学で学び、34年にダマスカスに帰ってタジヒズ中学校で教鞭をとった。

2人は、この中学を根城にして、バース思想を広めた。
授業のハラカを利用した。

ハラカとは一種のゼミナールで、知識人や軍人も参加したという。

タジヒズ中学には1500人の生徒がおり、200人は地方から来ていた子だった。
この地方出身者を通じて、バース思想は全土へ拡散していった。

2人はやがて教師を辞め、政治活動に専念した。
2人の生活はとても貧しかったという。

2人は、1944年にバース党を立ち上げた。
(正式な結党は47年)

バース党の思想は、「3つの原理」と「3つの目的」に要約できる。

原理① 真の民主主義運動は、大衆から起こるものであり、
    大衆が主役である

原理② 真の民主主義運動は、民族統一で満足すべきではなく、
    アラブ全体を組織化する行動である

原理③ 新たなアラブ社会は、革命を通じてのみ達成される

以上の3つの原理から、「統一」「自由」「社会主義」の3つの目的(スローガン)が生まれた。

「統一」とは、アラブ世界全体を1つの国に統一することを指す。

「自由」とは、外国からの支配や、内部のセクト主義や階級差別からの解放を指す。

すなわち、個人の権利と自由の保障である。

「社会主義」は、富と権力が上流階級に集中している現状を打破するために行う。

ここでの社会主義は、アラブ的な社会主義である。
ソ連的なものではなく、むしろ民族的な精神改革を意味する。

バース思想は、あらゆる宗教からの解放を主張した。

しかし、イスラム教を否定するものではない。

アフラクは、演説で次のように語っています。

「イスラームは、アラブの歴史・哲学・法と社会の体系である。
 人類の誇れる資産である。

 イスラームは神の啓示というよりも、アラブの輝かしい
 特質である。」

これは、イスラームを宗教ではなく、「アラブの伝統的文化」と認識するものであろう。

この点が、イスラム原理主義者と激しくぶつかる所以である。

バース党の当初のメンバーは、ほとんどが地方農村の若者だった。

都市部ではあまり支持されなかった。

アフラクとビタールが活動を始めた頃は、シリア人口350万人のうち、200万人が農民だった。

そして農民たちは、不在地主による封建的な大土地所有で支配されていた。

農民たちは、地主に搾取され、極貧の生活だった。

都市は地主と商人が支配しており、彼らは社会改革に関心を示さなかった。

都市の住民は、スンニ派が圧倒的な多数だった。

バース党が現れる以前のアラブ・ナショナリズムは、スンニ派が中心であった。

バース党がマイノリティにアピールしたのは、「どの宗教も平等だ」としたからである。

バース思想は、都市のスンニ派の富裕層を打破するものと考えられ、軍人の多くが地方農村の出身だったために、バース党と軍人は結びついた。

バース党は1952年に、シリアのアラブ社会党と合併した。

これにより、シリア軍隊内にも影響力を持った。

57年末には、シリアにバース党の政権を樹立した。

58年には、ナセルのエジプトと共同で「アラブ連合共和国」を形成した。

61年9月に、このエジプトとの連合は、バース党からの要求で解体された。

66年には、党内で内紛となり、創立者のアフラク、ビタールらは追放された。

追放された勢力はイラクに入り、クーデターを成功させて政権をとった。

シリアのバース党では、70年にハフェズ・アル・アサド将軍が政権をとった。

その後シリアは現実路線となり、バース党色は薄まった。

バース党内の対立が影響して、イラクとシリアは犬猿の仲になった。

(2016年2月10日に作成)


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