フランス統治の時代③
シリア人の憲法案が葬られ、フランス人作成の憲法が布告される

(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)

1925年7月に、ドルーズ派の反乱が起き、ドルーズの枠を超えて反仏・独立闘争となった。

反乱軍は、10月にダマスカスに侵入した。
するとフランス軍が攻撃をし、5000人の死者が出た。

年末には反乱はレバノンにも拡大したが、フランス軍は鎮圧していき、26年4月にドルーズ地区の首都が陥落して終息した。

シリアの独立運動は続き、28年4月に憲法制定議会のための選挙が行われた。

6月に議会が開催され、8月には憲法草案が提出された。

憲法案は、西欧型の民主憲法であり、最大の特徴は「シリア領は不可分の政治統一体である」と規定したことだった。

この「シリア領」には、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダンが含まれており、これらの分割は認めないという規定だった。

フランスの高等弁務官M・ポンソは、この憲法を拒否し、議会を解散させた。

そして自ら憲法を起草し、布告した。

(2015年10月23日に作成)


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