(『世界の歴史9 最後の東洋的社会』三田村泰助の文章から抜粋)
弘暦(乾隆帝)は、即位してから60年、84歳になった時、「私は五世同堂の運に恵まれた」と語った。
五世同堂とは、五世代もの家族が同じ家で暮らすことで、中国人はこれを人間の最高の幸福とする。
弘暦(乾隆帝)は在位が長すぎて、「皇帝業に飽き飽きした」と言って、息子の顒琰に皇帝を譲ることにした。
(※譲位後も弘暦は権力を死ぬまで離さなかった)
政務に飽き、遊蕩にも飽きた弘暦が、最後に遊び相手にしたのが、「太鼓持ち」だった。
その太鼓持ちとは、満洲旗人の出身の和珅である。
和珅は、初めはアルバイトで乾隆帝の輿を担いでいたが、そこからトントン拍子に出世して、首席の軍機大臣になり、吏部(官吏の任免)、刑部(裁判)、戸部(財政)を1人で切り盛りした。
彼は、賄賂の額ですべてを決裁したので、どんどん賄賂の風潮が広まり、彼は銀1万両(約5千万円)では洟も引っかけなくなった。
弘暦が死去し、顒琰(嘉慶帝)が和珅に自殺を命じた時、没収された全財産は8億両だったという。
8億両は、清朝の10年間の国庫収入を上回る。
今(1961年)の日本のカネだと4兆円になる。
この頃になると、旗人(※清朝に近い世襲の軍人、日本だと幕府の旗本にあたる)たちはなまくらになり、生活の贅沢さは凄まじかった。
無役の旗人たちも華美な暮らしをし、そのため領地を質に入れるなどして、清政府は救済で大変だった。
旗人たちは、従軍するとなると派手で大仕掛けになり、めっぽう軍費を使った。だが実戦の経験はなく弱かった。
その惨状に追い打ちをかけたのが和珅の悪政で、合戦で戦功を立てても賄賂を送らなければ取り上げてもらえず、逆に負け戦さでも賄賂をたっぷり送れば出世できた。
こうなると、将軍たちは軍費を賄賂に使うようなり、ついでに自分の懐に入れるようになった。
したがって従軍した将軍たちは、大金持ちになって帰ってきたが、清政府の軍事費は膨れ上がった。
乾隆12年(1747年)からの金川討伐の軍事費は、3年間で658万両だった。
それが同36~42年の6年間の軍事費は、6370万両に膨れている。
嘉慶帝は、和珅を自殺させて財産を没収したが、その8億両を一度も民に施さなかった。
そのため、「和珅がひっくり返って、嘉慶帝が腹一杯」との落首が流行った。
(2022年2月20日に作成)