天理教の乱

(『世界の歴史9 最後の東洋的社会』三田村泰助の文章から抜粋)

白蓮教の乱が鎮まってから9年後の1813年に、今度は「天理教の乱」が起きた。

天理教は、白蓮教の一派である。

清朝の嘉慶帝は、白蓮教の乱の最中の1799年に、勅語を出して「反逆者は罰するが、白蓮教の信者であるだけでは罰しない」と布告した。

これは、清朝は国法で白蓮教を禁じていたから、結果的に白蓮教を公認する政策転換となった。

嘉慶帝の狙いは白蓮教の乱を鎮めることだったが、国法の権威を落としてしまい、白蓮教がさらに拡がることになった。

天理教の乱は、白蓮教の乱の時には無風だった、河北省、山東省、河南省などの、首都である北京の近くで起こった。

乱の首領の林清と李文成は、挙兵の前に2度、北京に潜入して謀議したという。

事前に計画が漏れて1813年9月2日に李文成が捕まると、部下3千人がすぐに河南省の滑県城に乱入して、文成を救出した。

一方、北京では70余人の教徒が、9月15日に7人の宦官の手引きで紫禁城(清の王宮)に侵入した。

嘉慶帝は熱河に避暑して不在だったので、第2皇子の旻寧(後の道光帝)は自ら鉄砲で応戦した。

駆けつけた近衛兵がようやく賊を倒したが、河北省、山東省、河南省で天理教の教徒たちは蜂起した。

天理教の乱は、首都・北京の周辺で起きたため、清朝も本腰を入れて討伐し、4ヵ月の短期間で鎮定した。

しかし紫禁城に侵入された事は、清政府にとってショックだったろう。

天理教の乱が、その前の白蓮教の乱と違う点は、教主の林清が勅語を発して、部下を宰相に任命するなど、政治組織をつくろうとした事である。

乱に革命の要素が出てきたといえる。

白蓮教の乱では、政府機関のある県城を教徒たちは避けて攻めなかった。
それが天理教の乱では、県城を占領して官吏を殺している。

天理教の乱が鎮定された後、嘉慶帝は再び白蓮教を禁じると布告した。

(2022年9月23日に作成)


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