(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)
アヘン戦争は、1840年に始まった。
これは清朝の滅亡する71年前にあたる。
清朝では、康熙帝が61年の在位で、乾隆帝は60年の在位だった。そして2人の間の雍正帝は13年の在位だった。
この3代の130年余りが、清朝の黄金時代とされている。
そして、康熙が蓄積し、雍正が維持し、乾隆が散じたと言われている。
乾隆は、各地の反乱や、チベットへの出兵、ビルマへの遠征と膨大な軍費を支出した。
さらに文化事業の『四庫全書』8万巻の編纂にも巨費を投じた。
そして不作の年には気前よく税を免じた。
弘暦(乾隆帝)は、65歳の時に「85歳で退位する」と布告し、実際に85歳で退位した。その後、4年生きた。
弘暦が死ぬと、寵臣だった和珅が処刑された。
没収された和珅の家財は8億両と言われたが、当時の清政府の歳入は7千万両だから、10年分以上の歳入にあたる。
和珅は20年も寵臣だったが、毎年歳入の半ば以上をくすねていた計算になる。
このように、弘暦(乾隆帝)の後半期はダメダメだった。
弘暦の次に皇帝になったのは顒琰(嘉慶帝)だが、その在位の25年はひたすらボロ隠しに終始した。
その次の旻寧(道光帝)になると、積年の膿が吹き上げてきた。
アヘン戦争は、道光帝の時に起こったのである。
英国(イギリス)は18世紀末に、乾隆帝の80歳祝いの使節としてマカートニー卿を北京(清朝の首都)に派遣した。
この時に英国は、清との通商を改善しようとした。
だが、弘暦(乾隆帝)がマカートニーに託して英国のジョージ3世に宛てた手紙の内容は、こうだった。
「わが国は無い物はなく、外国と通商する必要はない。
外国は茶葉や陶器や生糸などを求めて来航するから、恵みを与えて撫育しているのだ。」
この手紙を見れば分かるが、当時の中国には平等互恵の通商精神は全くなかった。
18世紀末の当時は、清国が西ヨーロッパから輸入するのは奢侈品(時計や望遠鏡など)が多く、逆に輸出する茶葉は西ヨーロッパの必需品だった。
そして当時は、茶の供給地(生産地)は中国だけであり、英国は大量の茶葉を買っていた。
英国には、中国に大量に輸出する品がなく、毛織物に力を入れたが中国人の好みに合わなかった。
このため英国船は、メキシコ銀貨やスペイン銀貨を積んで中国の広州に行き、銀貨と交換で茶葉を入手して本国に帰っていた。
清は銀本位制を採っていたが、清政府が鋳造した銀貨はほとんどなくて、銀貨の形状は問わず、銀の純度と重量が規定どおりならよかった。
このため、清では外国製の銀貨が流通していた。
清朝は、銅銭は鋳造していて国家の独占にしていたが、これは銅が武器製造と密接だからである。
銀は武器製造の原料にならないので、放置していた。
中国で本格的に銀貨の鋳造が始まるのは、辛亥革命の以後である。
なお、清朝で最も流通した銀貨はメキシコ銀貨で、鷹の模様があったので「鷹洋」と呼ばれた。
英国は、中国との貿易が大赤字なので、アヘンという新商品をインドで開発して、中国に運び売り込んだ。
すると中国で大当たりし、今度は中国が貿易大赤字になっていくのである。
そして中国は、銀貨がどんどん海外に流出するようになった。
アヘンは、一度吸うと止めるのが難しい。
アヘンと離れられなくなる事が、相思の男女の離れがたいのに似ているので、中国の詩語ではアヘンを「相思草」とも言った。
(清朝の前の)明朝の1589年の関税表を見ると、アヘン2斤の値は銀条2個であった。
ただしこれは薬材としての輸入で、数量は微々たるものだった。
それが、英国が持ち込んだことで、一気に中国で広まったのである。
中国でアヘンは広く行き渡った(中毒者が増えた)のには、次の理由があった。
まず、アヘンを売る商人たちは、アヘンの害を隠しつつ、「アヘンは長寿の薬」と宣伝した。
ごく最近まで中国では、アヘンで細く長く生きられると、真面目に信じられていた。
うわべだけ見ると、身体に良い兆候もある。
アヘン中毒者は風邪を引かないが、これは感覚が麻痺しているからで、風邪の症状を感じていないだけである。
また、セックスが長続きするという理由でアヘンに手を出す者もいるが、これも感覚の鈍化で、半睡眠の状態が続くにすぎない。
次に、政治の腐敗といった現世の苦しみを忘れさせてくれるのも、アヘンに溺れた理由であった。
当時は英国でも、マンチェスターの貧しい工員などがアヘンに溺れた。
これは賃金が安くて酒が買えず、アヘンで代用したからだという。
それほどアヘンは安く入手できたのである。
清朝は、アヘンの禁令を早くから出している。
雍正7年(1729年)には、アヘン業者に軍役を課したり、杖で100打ち3千里の流罪を定めている。
乾隆40年(1780年)にも禁令を出したが、この年は英国の東インド会社がインドのベンガルでアヘンの専売権を獲得し、対清の輸出でエースに育てようとした年である。
アヘンが中国で激増したのは嘉慶帝の時期で、嘉慶元年(1796年)に清政府はアヘンの輸入を禁じた。
それまではアヘンの輸入は(薬材としては)合法で、業者はアヘン1箱(※これは100斤で、60kgにあたる)につき銀3両を税金として支払っていた。
1799年には、国内でのケシ(アヘンの原料)の栽培も禁じた。
次々と禁令が出たのにアヘンの輸入が増えていったのは、為政者が怠慢だったからである。
清政府は、人民がアヘンで廃人になっても痛みを感じず、むしろ人民が賢明になるのを恐れた。
為政者にとっては、人民が税金さえ納めてくれれば、アヘンで半睡眠の状態になるほうが面倒がなかったのだ。
愚民化が行き過ぎて税金が減り、社会不安になるまでは、清政府は放置した。
さらに酷いのは、税金を払えなくなったのはアヘン中毒者だけでなく、普通の農民たちもだった事だ。
清では、税金額は銀で表示されたが、人民がふだん用いるのは銅銭であった。
アヘンの密輸が増えていき、アヘンを買うため銀貨の流出が続くと、銀の値が上がった。
そうして銀1両は銅銭800文だったのが、アヘン戦争の頃には2000文になってしまった。
これにより支払う税額が倍くらいに上がってしまい、人民が反乱を起こしかねない情勢となった。
アヘンは、ソフトボールぐらいの大きさの球状の中に詰め込まれて運ばれた。
これを40個つめると、100斤(60kg)の1箱となる。
箱は主にマンゴ材で、100斤入りの箱の長さは1m、幅と高さは50cmだった。
グリンバーグの『英国の貿易と中国の開港』によると、道光15年(1835年)にはアヘンの輸入は3万箱を超え、道光18年(1838年)には4万箱を超えた。
アヘンは生産地と品質から、それぞれ別の名が付けられた。
ベンガル産が最高とされ、「公班土」(コウパントウ)と呼ばれた。
公班は英語のカンパニーの音訳で、英国の東インド会社のことだ。
英国では、アヘンは東インド会社の専売品だった。
次に高級なアヘンは、ボンベイから積み出されるマルワ産で、「白皮土」と呼ばれた。
マドラスから積み出した「紅皮土」は最下級品だった。
以上は全てインド産である。
他にもトルコ産を「金花」、イラン産を「新山」と呼び、これらは主にアメリカ商人が扱った。
(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)
アヘンは中国では、「阿片」とか「鴉片」「阿芙蓉」と言う。
アヘンは、ケシの実から採れる乳状液を、固めて粉にしたもので、劇薬である。
鎮痛の薬としても用いられるが、煙を吸飲するとうっとりして昏睡状態になる。
煙の吸飲をくり返せば、中毒者となり、廃人になる。
アヘンの世界的な特産地は、トルコからインドにかけての地帯である。
中国は昔から、この地から薬用として輸入していた。
17世紀に入ると、オランダが支配する台湾で、マラリアの特効薬としてアヘン吸飲が流行した。
これが台湾の対岸の福建省に伝わり、そこから中国全土に広がっていった。
当時にアヘンを中国に運んできたのは主にポルトガル商人で、量は年に100箱くらいだった。
ところが1773年から、英国がアヘン貿易に乗り出した。
英国は、インドの支配を確実にすると、中国との貿易に力を入れて、中国貿易をほぼ独占するほどになった。
当初は、英国が中国に輸出するのは、インド産の棉花が多かった。
中国は棉花を輸入して、これを南京木綿に加工し、英国に輸出したのである。
英国にすると、茶を中国から大量に買い、さらに陶磁器や南京木綿や絹も買うので、貿易の大赤字である。
そこで考え出したのが、インド産のアヘンの輸出だった。
英国がアヘンを中国に輸出したところ、中国全土にアヘンが流行した。
中国のアヘンの年間輸入量は、1729年には100箱だったのが、1821年には6千箱、1839年には4万箱になった。
清政府はアヘンの禁令を何度も出したが、現地の官憲は賄賂をもらえばアヘン密輸を見て見ぬふりをした。
英国はアヘン貿易でほくほく顔となり、1807年になると銀貨を持ってこなくてもアヘンだけで十分な量の茶を買えるようになった。
それから後は、中国側がアヘンを買うために銀貨で支払うようになった。
アヘンの年間消費量(輸入量)が1万箱を超えた1830年代になると、清の中央政府(清の王宮)で初めてアヘンが大問題になった。
アヘン1箱は、アヘン常習者100人が1年間に吸う量と思えばいい。
だから1万箱の輸入ならば、常習者が100万人いた事になる。
1839年には4万箱の輸入だから、400万人が常習者になっていた計算になる。
当時の中国の人口は4億人だから、100人に1人が常習者だったわけだ。
アヘン購入のため、どんどん銀貨が外国に流出した結果、銀の価値が高騰した。
その結果、税金は銀で表示されるので、農民や商人は税金を支払うのが難しくなった。
そのため19世紀の中頃(アヘン戦争の頃)になると、清政府の歳入は定額に届かなくなった。
(2022年1月26日、2月3日に作成。2月14日に加筆)