アヘン戦争が起きるまで②
唯一の開港場だった広州とアヘン密貿易
行商と公行

(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)

日本の江戸時代における長崎のように、鎖国をしていた清国は広州だけを開港していた。

日本は中国とオランダのみと交易していたが、清はそういう制限はせずに諸外国に広州を利用させた。

広州は、広東省にあり、湾に入り川を上っていくとある古都だ。

清政府は、広州城の西に外国人の居留地をつくり、外国人の住む建物を「夷館」と呼んだ。

夷人(外国人)に様々な制約を課したのは、長崎と同じであった。

夷館からのみだりな外出を禁じ、1ヵ月のうち3日だけ散歩を許したが、散歩は10人を超えてはならなかった。

他にも、妻を広州に連れてくるな、中国人を雇ってはならない、広州で越冬してはならない、といったルールがあった。

しかし実際には、現地の官僚たちは賄賂を外国人からもらって、ルール違反を見逃していた。

さらに広州の近くには、ポルトガルが特殊居住権を得ているマカオがあり、そこに妻子を置いておけた。

1830年のマカオ在住の外国人は、人口調査書によると次の通りだ。

白人の男性 1201名  白人の女性 2149名

奴隷の男 350名  奴隷の女 779名

白人の男が女よりも少ないのは、広州に出掛けて仕事をしているからである。

広州にいる外国人との商売(交易)は、清政府から免許を受けた、少数の中国人商人しか出来なかった。

この免許のある商人を「行商」といい、行商たちは「公行」というギルドを作っていた。

ギルドのメンバーは、だいたい10社だった。

夷館(外国商館)のある地区は、「十三行街」と呼ばれ、13軒の洋館が並んでいた。

イギリス館、デンマーク館、スペイン館などだが、必ずしもそこに居る商人の国籍は一致してなかった。

例えばスウェーデン館の中には、3社のアメリカ商社が入っていた。

アヘン戦争の時、十三行街で最大の商社は、英国(イギリス)の「ジャーディン・マセソン社」で、2位は「デント商会」だった。

外国商人のほとんどが、アヘンを密売していた。

米国(アメリカ)のオリファント商会は、仲間たちから「シオニスト・コーナー」(敬虔な区画=善人の店)と呼ばれていたが、一切アヘンを扱わなかったからだ。

オリファント商会が珍しがられていたのだから、アヘン密売が日常だったと分かる。

アヘン戦争の頃、「公行」には10社が所属していた。

この10社が清国の対外貿易を独占しており、巨利を得ていた。
そのため、政府や役人から賄賂と献金の要求が多かった。

例えば道光6年(1826年)の新疆回族の反乱では60万両、同12年の広東連山の乱では21万両を、清政府から求められて献金している。

アヘン売買は非合法だが、広州の行商たちは「公然とアヘンを売買したい」と願っていた。

アヘンが合法化されて、それを行商が独占輸入できるなら、利益は天文学的な数字になるからだ。

公行の代表者を「総商」というが、アヘン戦争の時期は伍紹栄が務めていた。

伍紹栄は、行商の多くの台所が火の車なのを知っていた。

当時、広州は世界で最も金利が高かった。
アヘン密輸の地だったからだ。

金利が高いので、金融業者が進出してきて、インドからはパールシー族が来た。

パールシー族は、ヒンズー教でもイスラム教でもなく、拝火教徒(ゾロアスター教徒)である。
彼らはイランから追放されてインドで商人となり、金融業で成功していた。

パールシー族が広州で手を組んだのは、貿易独占権を持つ行商たちだった。
パールシー族は、行商を仲介者にしてカネを貸した。

行商にしてみると、仲介するだけで手数料がもらえるので、どんどんカネを貸したくなる。

そうやって野放図にカネを貸すうちに、返済不能になる者が出てきて、代わりに行商が返済する事になった。

行商が手数料を取っていたのは、返済が滞った時に責任を持つ約束があったからだ。

もし行商が返済しなければ、パールシー族は訴訟を起こす。
そうなれば行商の免許は剥奪されるので、無理にでも返済しなければならない。

こうして行商10社のうち、7~8社が苦境にあった。
(だから儲けの大きいアヘン取引の合法化を願っていた)

さて。
非合法のアヘンは、どうやって広州に密輸されたのだろうか。

前述のとおり、広州にオフィスを構える外国商人たちは、ほとんどがアヘンを売っていた。

しかし、当時の外国人たちには治外法権はなく、外国商館にアヘンは置けない。

そこで、アヘン用の倉庫となる船が用意されて、怜仃島の沖(香港島と虎門の中間あたりの沖)に常時浮かべられた。

そして商談は外国商館で行い、取引が成立すると銀貨と引き換えに荷渡しの書類を渡す。

アヘンを買った商人は、足の早い船を用意してアヘン船へ行き、書類を見せてアヘンを積んで帰った。

道光11年(1831年)の皇帝への上奏文によると、アヘンを運ぶ快速船は200隻もいたという。

清の海軍の兵船では、この快速船には追いつけなかった。
さらに役人は賄賂をもらっていて、めったに動かなかった。

清軍の海上警備の責任者に、韓肇慶という人がいた。

韓肇慶は、賄賂としてアヘンの現物2%をもらい、その半分を懐に入れ、半分を押収品として清政府に納めた。

その結果、アヘン取り締まりの功で副将に昇進した。

実のところ、外国商人たちが恐れていたのは、官憲ではなく海賊の襲撃だった。

外国商人たちは、たまには北上して広州以外でもアヘンの密貿易をした。

彼らにすると、取引の場所が広州だげに限られて、取引相手が公行だけなのは不便だった。

だから外国商人たちは、「公行の廃止(自由貿易)」と「広州以外での交易(門戸解放)」を求めた。

そしてアヘン戦争の結果、この2つは達成された。

(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)

清国の西ヨーロッパ諸国との貿易は、大部分は広東省の広州で行われたが、たまに寧波や厦門にも外国商船が来ることがあった。

広州の行商たちは、広州に外国商船を釘づけしたいと考えて、官憲に運動した。
官憲は皇帝に進言して、1757年に外国貿易は、広州だけに限定された。

唯一の開港場となった広州では、外国商人は様々な制約をうけたが、その中には「中国語を学んではならない」「中国の書物を買ってはならない」もあった。

(2022年2月3~4日に作成。2月14日に加筆)


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