アヘン戦争が起きるまで④
1834年に清国と英国は揉める

(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)

イギリス(大英帝国)では、清国との貿易は、東インド会社に独占権が与えられていた。

その免許状は20年ごとに更新されたが、1832年にイギリスの議会は免許状の延長を認めない決議をした。

これにはいくつかの理由があった。

まず産業革命があって、都市の市民が選挙権を得た事がある。

それまでは10ポンド以上の税金を納めている「領地持ち」だけが選挙権を持っていた。

それが法改正されて、貴族の時代から商人や市民の時代になった。

そして商人たちは、東インド会社の中国貿易の独占を嫌った。

次に、東インド会社が非能率的になっていた事が大きい。

東インド会社は大船で貿易していたが、アメリカの商人たちは小型船で同じくらいの利益を上げていた。

アメリカ商人は小回りを活かして、アメリカの農産物をヨーロッパに運び、そこでスペイン銀貨に替えて、インドへ行きアヘンを購入して、清(中国)の広州に運んでアヘンを売り、広州で茶葉や絹を買ってアメリカに帰国した。

また、東インド会社がイギリスの対清貿易を独占しているといっても、実際には「プライベート・トレイダー(個人貿易商)」と呼ばれる連中が下請けをしていた。

「ジャーディン・マセソン社」や「デント商会」である。

東インド会社は、広州に特派委員を出していて、清国側は「大班」と呼んでいた。

これが東インド会社の免許状が無くなるので退場する事になり、イギリス政府は新たに「駐清の商務監督」を広州に置くことにした。

そして初代の商務監督にウィリアム・ジョン・ネーピアが任命された。
ネーピアは海軍大佐で、サーの称号も得ていた。

だが清政府にすると、そんなイギリスの事情は知ったことではなかった。

清にとって外国との貿易は、皇帝のお情けでしてあげている事で、外国は全てが蛮夷であった。
だから対等の外交をする気はない。

イギリス政府は対等の立場で清政府と交渉し、通商条約を結びたいと考えていた。
(※イギリスはインドですでに支配体制を築いており、清を侵略する意思があったと考えるのが自然だろう。)

1834年1月25日に、イギリスのパーマストン外相は、清国に向かうネーピアに次の指示を出した。

①広州に到着したら、両広総督(広州の総督)に書面で通知すること

②広州以外にも通商拡大を目指すこと

③北京の清政府と直接の交渉を目指すこと

④特別の場合を除いて、清と新しい関係を生じないようにする
 ただしその機会があれば政府に報告して訓令を待つこと

⑤特別の必要がない限り、軍艦を虎門(広州近くの珠江にある海上の門で、清は虎門水道より北を内河と見なした)に入れてはならない

ネーピアは、1834年7月15日にマカオに着き、虎門で小船に乗り替えて、広州の十三行街(外国商館の区画)のイギリス商館に入った。

そして着任の通知書を両広総督に渡すよう命じた。

しかし清国側からすると、夷人が総督に手紙を出すのは無礼千万だった。

これまでの東インド会社の大班は、請願書を公行(外国商人と取引する広州商人たちのギルド)に提出し、公行がこれを清政府に取り次いでいた。

「これまでの大班と商務監督は違う」と説明しても、清側は聞く耳を持たなかった。

結局、両広総督はイギリスとの一切の貿易を停止させた。
そしてイギリス商館を清軍が包囲した。

ネーピアは、これを見て外洋にいる軍艦2隻に、広州に入ってくるよう命じた。

これは、上のパーマストン外相の訓令⑤に違反するが、ネーピアは「特別の必要」に当たると判断したのだ。

ネーピアは軍艦の力で清国を恫喝したわけだが、清側も陸上に兵を集めた。

ここで商館に籠城中のネーピアはマラリアに罹ってしまい、さらにイギリス側に戦争の準備もなかったので、ネーピアは広州を去ることを決めた。

ネーピアは9月26日に担架に乗せられてマカオに上陸したが、その15日後に死亡した。

両広総督はネーピアが去ったのに満足して、貿易の再開を命じた。

この事件は、清側の勝利で終わったが、たった2隻の軍艦を虎門の内河の各砲台が止められなかった事は、清政府に大きなショックを与えた。

だが、6年後のアヘン戦争までに清は防備を整えなかった。

(2022年2月6日に作成)


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