(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)
龔自珍は、母は碩学の段玉裁の娘で、父は進士に合格した高級官僚だった。
龔自珍は、清代の高名な詩人であり、公羊学者でもあった。
彼の詩は、アヘン戦争の時代を照らして、後世の我々に見せてくれる。
彼はアヘン戦争の最中の1941年9月に急逝した。毒殺説もある。
中国では、読書人は必ず詩を作るが、詩人という職業はない。
詩人の多くは官吏であり、杜甫も李白も龔自珍も官吏だった。
龔自珍の属した詩人グループは、「宣南詩社」という。
この同人には、公羊学の傾向が強かった。
アヘン戦争の立役者の1つである林則徐や、火付け役となった黄爵磁は、このメンバーだった。
「公羊」とは、古典である『春秋』の注釈の1つである。
『春秋』には、公羊、左氏、穀梁の三伝があり、史実の底に流れる理念に重点を置くのが「公羊伝」である。
「公羊伝」は、文章に痛烈な歴史批判を織り込んでいる。
だから、それを学ぶ「公羊学」は、歴史批判を重視して、現代の政治にも批判の目を向け、政治をしきりに論じた。
清の時代の学問は、「考証」一色といえる。
だから公羊学は、主流にならなかった。
宣南詩社のメンバーは、いずれも当代の俊才で、詩だけでなく政治も論じたと思われる。
当時の官吏登用試験は「科挙」で、宮崎市定の著書『科挙』に詳しく書かれている。
科挙では、まず数段階の試験に合格して、「挙人」になる。
挙人になった者たちは、3年に1度の試験で合格すると「進士」になる。
毎期ごとに万を数える挙人が受験し、進士になるのは200名ほどだった。
進士になると、高級官僚になれる。
清の道光帝の時期は、科挙は長老の軍機大臣・曹振鏞の性格を反映して、文字を丁寧に書くことに重点が置かれた。
文章の内容よりも、文字の出来にこだわったので、受験生も官僚も正しい楷書を書くことばかり考えた。
龔自珍とその友人の魏源は、公羊学者として高名だったが、字にクセがあるのでなかなか進士に合格しなかった。
要するに、個性のある者は科挙で落される仕組みになっていた。
したがって道光年間の政界は、「厭々として生気なし」と言われた。
進士に合格すると、その年の試験官を終生の師と仰ぐしきたりがあり、当時の派閥はこの線が濃い。
付け加えると、中国には特殊は賤民が存在した。
広東省の水上生活者や、流しの音楽家、乞食を代々職業とする細民などである。
この人たちは法律によって、科挙の試験が受けられなかった。
つまり、役人になって出世する道が閉ざされていた。
(2022年2月7日に作成)