(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)
イギリス遠征艦隊は、清朝に対して、6港以上の開港や領土の割譲を要求した。
これに怒った清の旻寧(道光帝)は、イギリスとの交渉を打ち切れと命じた。
1841年1月7日にイギリス遠征軍は、要求が拒否されたとして、広東省(広州など)を攻撃した。
イギリスとの交渉を任されていた琦善が、イギリスの機嫌をとるため守備兵を削減していたため、清軍は大敗した。
イギリス軍を率いるチャールズ・エリオットは、清との交渉が上手くいくように、「占領した舟山列島を返還する」と清側に伝えた。
これで琦善の顔がいくらか立つと考えたのだろう。
しかし琦善が、イギリスの求めている香港島の割譲を旻寧(道光帝)に伝えると、旻寧は激怒した。
一方、イギリス本国のロンドンにいるパーマストン外相は、エリオットが舟山列島の返還をしたことに激怒した。
旻寧は、香港の割譲を含む講和条約への調印を許さなかった。
そこでイギリス軍は、1841年2月25日に、関天培・水師提督のいる靖遠砲台を攻めた。
ここは200名の守備兵しかおらず、関天培は戦死した。
関天培は援兵を乞うていたが、琦善は一兵も送らなかった。
ついに琦善は罷免され、奕山、隆文、楊芳の3人が広東省に派遣された。
すでに解任されていた林則徐は、5月1日に浙江省の軍営で働けと命じられて、広州を去った。
5月24日はビクトリア女王の誕生日だが、イギリス軍はこの日に広州の十三行街(外国商館のある区画)に攻め込んだ。
広州には4万人の清兵が入っていたが、これが民家を略奪しており、抵抗する住民と殺し合いをしていた。
そこに現れたイギリス軍は、殺人、強姦、家の破壊、墓を掘り返すなど、残虐のかぎりを尽くした。
清軍はそれを見ても、イギリス軍と戦おうとしなかった。
ここで、現地の清軍とイギリス軍に和議が成立し、これを「広東和約」という。
清当局がイギリス軍に600万ドルを支払うことや、清軍が広州城を出て城外60マイルの地点まで退去することが条件だった。
奕山・将軍はこの条件を受諾したが、北京の中央政府には「病気に倒れる兵が多いので、城外に移動した」と嘘の報告をした。
イギリス軍の暴虐な行いに怒った広州の住民たちは、鍬などを持って決起し、2万人で千人のイギリス軍を包囲した。
決起した彼らは、「平英団」(イギリスを平らげる集団)と名乗った。
豪雨のため、イギリス軍は火器を使えなかった。
だが、そこに広州の知府(役人)がやってきて、2万人の住民兵を解散させた。
この頃ロンドンで、チャールズ・エリオットの罷免が決まった。
舟山列島の返還を約束したからだった。
舟山列島は専門家の調査で、貿易港として不適当と分かったため、エリオットは返還を取引に使ったつもりだった。
しかし本国のパーマストン外相は、実利よりもイギリスの面子を優先した。
エリオットの後任として、ヘンリー・ポッティンジャーが特命全権大使の任命され、広州に8月10日に着任した。
ヘンリー・ポッティンジャーの最初の任務は、舟山列島の再占領で、イギリス艦隊はアモイを占領し、9月26日に舟山沖に現れた。
この時には、欽差大臣は蒙古人の裕謙に代わっていたが、あっさりとイギリス軍に敗れて自殺した。
(イギリス軍は冬の間は活動を止めたが、増援を得た上で)1842年5月には浙江省の乍浦城を攻め、守備隊長の長喜は自殺した。
乍浦でもイギリス軍は暴虐で、5日間の占領中に略奪と強姦をくり返した。
アヘン戦争は、中国人の自殺や自殺に近い抵抗のエピソードに満ちている。
こうした自殺は、キリスト教徒のイギリス人には理解できなかった。
アヘン戦争で敗走した清の将軍は多いが、死刑になったのは浙江提督の余歩雲だけで、自殺者は死刑を恐れたのではない。
イギリス軍は次に呉淞(ウースン)要塞を落とし、揚子江を上っていき、南京の玄関である鎮江を1842年7月に攻めた。
イギリス軍7千に対し、守る清軍は1400だった。
イギリス軍が突入すると、鎮江も地獄と化した。
『出囲城記』には、「たちまち婦女の死体が路上に満ちた。髪をみだし全て全裸。死なない者は連行された。」とある。
同書は自殺した婦女の姓名を書き連ねているが、75名である。殺された数はその幾倍あったのだろうか。
鎮江が陥落すると、旻寧(道光帝)もついに和議(不平等条約)に同意した。
こうして「江寧条約(南京条約)」が、新暦1842年8月29日(道光22年7月24日、道光は旧暦)にイギリス艦のコーンウォルス号において調印された。
この条約で、香港島の割譲が明文化され、広東、厦門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海が開港された。
清は、没収したアヘンの代金として600万ドルを支払うことになった。
さらに、イギリス人がした公行への負債300万ドルと、イギリス軍の遠征費1200万ドルの支払いも約束させられた。
治外法権などの細目は、翌年に広東省の虎門で追加調印した。
なお、前述したイギリス軍が揚子江を上って鎮江を攻撃した時、対岸の揚州は騒然となった。
揚州の商人たちは、イギリス軍にカネを支払って攻撃を免れた。
実はイギリス軍は、次の侵攻目標は南京にしていて、揚州は計画になかった。
だが60万ドルを要求し、揚州商人が半額に値切ったため30万ドルを受け取った。
少し時を戻すが、1841年9月26日に、イギリス船のネルブッダ号が台湾沖で沈没した。
これはイギリス艦隊が厦門(アモイ)を占領し退去した直後である。
ネルブッダ号には白人21名の他に、インド人が240名乗っていた。
脱出用のボートは1隻しかなく、白人21名だけが乗って、インド人たちを置き去りにした。
見捨てられたインド人240名のうち、岸に泳ぎ着いて清兵の捕虜になったのは133名だった。(残りは溺死と清兵に殺害された)
北京政府の指示は、「捕虜から供述書を取ったうえで、頭目だけは禁固し、あとは死刑にして人心を快ならしめよ」だった。
そこで、9名の頭目を除いて全員が斬首された。
1842年3月にも、台湾沖でアン号が沈没し、岸に着いた57名のうち44名が斬首になった。
この2つの台湾における事件が、南京条約を結ぶ時に問題になった。
イギリス側は責任者の処分を要求し、北京政府は怡良を台湾に派遣して調査した。
調査の結果、イギリス船は撃沈ではなく難破の沈没だとして、撃沈だと報告した台湾道員(台湾の民政長官)の姚瑩を「虚偽の報告をした」として逮捕した。
各地でイギリス軍に負けた清の要人たちは、皆が例外なく敗戦していたほうが都合が良い。
台湾でイギリス船を撃沈していたとなると、簡単に負けた自分は何なのかという事になる。
だから、姚瑩は逮捕されたのである。
姚瑩が逮捕されて北京に送られる時、台湾では兵士と民のストライキが起きたと、『台湾通史』にある。
砲撃して撃沈したのを見ていたから、不満が爆発してストライキになったと解釈せざるを得ない。
姚瑩が6日投獄されただけで出獄し、再登用されたのも、彼の砲撃説が正しかった証拠だろう。
1842年の旧暦12月3日に、魏源の書いた『海国図志』50巻が完成した。
この書には、魏源と宣南詩社(詩人の同好会)で同人の林則徐が広州で集めた外国の諸資料も使われた。
『海国図志』は、外国を知りたい中国人にとって貴重な書となり、日本にも伝わって広く読まれた。
最後に、アヘン戦争におけるアメリカの態度を書く。
アメリカは、駐イギリス公使のエヴェレットがイギリス政府から、「イギリスが清に勝利した際の成果は、アメリカにも等しく分ける」との保証を得ていた。
だからアヘン戦争中、ずっと戦況を見守った。
ただし「在留アメリカ人の保護と、アメリカ人のアヘン貿易を阻止する」との名目で、ローレンス・カーニー提督が艦隊を率いて、1842年4月から1年間、中国の沿海にいた。
この艦隊は、アヘン貿易を止めず、むしろ支援していた事が、カーニー自身の海軍省への報告で分かる。
アメリカ艦隊は、「アヘン貿易を止めに来た」とのビラを、中国語であちこちにばら撒いたので、清国の民衆は好感をもった。
アメリカの宣伝戦は上手くいき、イギリスと戦った林則徐もアメリカには好意を持っている。
アメリカは、戦争中に良い子を演じ、戦後はイギリスが南京条約で得たものとほぼ同じ内容の『望厦条約』を清と1844年に結んだ。
(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)
イギリス政府は1841年に全権使節(中国現地の総司令官)を、チャールズ・エリオットからヘンリー・ポッティンジャーに替えた。
そして1842年5月にイギリス軍は、軍艦を25隻に増強した大艦隊をもって、北上した。
厦門、舟山、乍浦を攻撃して、上海を占領し、揚子江をさかのぼって鎮江を攻め取り、南京城に向けて砲列をしいた。
北京に次ぐ第二の都ともいうべき南京が砲撃されそうになったので、清政府は耆英を全権大使に任じて、和を講ずることにした。
そして1842年8月29日に、耆英とポッティンジャーが『南京条約』に調印した。
南京条約の主な条項は、次のものだ。
①香港をイギリスに割譲する
②合計2100万メキシコ・ドル(1ドルは0.7両)をイギリスに支払う
③広州だけでなく、新たに厦門、福州、寧波、上海を貿易港として開く
④開港した5港において、イギリス商人は自由に居住と商売ができる
⑤適切な関税にする
⑥行商(公行)が外国貿易を独占しているのをやめる
⑥両国は対等の交際をする
奇妙なことに、戦争の原因となったアヘン貿易については、南京条約では何も決めなかった。
だがアヘン貿易は黙認された形となり、より多くのアヘンが中国に入る結果となった。
その後に清は、同じような条約をアメリカ、フランスと結んだ。
1844年7月にはアメリカと『望厦条約』を、44年10月にはフランスと『黄埔条約』を結んだ。
とはいえ清は、その後も外務省を設けず、外務大臣も置かなかった。
依然として「礼部」という朝貢国を扱う役所で、イギリスなどに当たった。
新しい処置としては、イギリスなどとの交渉役に広東にいる両広総督(広東省と広西省の長官)が指名されたくらいだった。
イギリスに対して公文書では、「夷」の文字が使われ続けた。
南京条約の締結後も、イギリス製品の中国輸入は(アヘン以外は)さほど増えなかった。
イギリスはその原因を、清政府が外務省を置かないことや、開港場が中国の東南に偏っていて北方や奥地にないからだと考えた。
そこでイギリス政府は、新しい要求を認めさせる機会を待ち、1856年に「アロー戦争」を起こすのである。
アロー戦争の後の1861年に清政府は、対等国との外交を扱う役所として「総理衙門」をつくった。
(『中国を知るための60章』明石書店から抜粋)
『南京条約』の付属条約では、「協定関税」「領事裁判権」「最恵国待遇」が規定された。
これは中国側のみに規定され、これが不平等条約といわれる所以である。
ちなみに同様の規定が、徳川幕府が列強国と結んだ一連の安政条約にもあった。
南京条約が結ばれた当時は、その不平等性がさほど清朝に意識されておらず、むしろ「乱暴な夷狄を手なずけるために恩恵を与えた」くらいに考えていた。
ところで南京条約には、アヘンのことが出てこない。
イギリスの戦争目的がアヘン貿易よりも、開港や公行の廃止といった「貿易の拡大」にあったと分かる。
中国の市場を開放させることが、アヘン戦争の真の目的だった。
アヘン戦争は、東アジアの歴史に画期を成すものだったが、当時にそれが直ちに認識されたわけではなかった。
中国は、夷狄との紛争(戦争)に敗れることはよくあり、「軍事的に敗れても文化力で夷狄を同化してきた」のが中国史である。
だから、イギリスに対しても同様に考えていた。
そもそも中国で重視される儒教では、親元を離れて利益を求めて遠国に商売に行く者は、不孝も甚だしい強欲者である。
「そのような連中に、優れた点などあるはずもない」というのが、当時の中国知識人の大方の見方だった。
アヘン戦争中に広州で起きた、民衆が武装した「平英団」の抵抗は、後に出た太平天国、義和団、中国共産党の農民運動の先駆けと位置づけることも可能だろう。
(2022年2月9~10日に作成。2月17&20日に加筆)