アヘン戦争が起きるまで③
英国が求めた通商拡大を清朝は断る、東インド会社

(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)

英国(イギリス)は18世紀末に、乾隆帝の80歳祝いの使節としてマカートニー卿を北京(清朝の首都)に派遣した。

(※ジョージ・マカートニーは、1792年9月に英国を出発し、翌93年の9月に乾隆帝に会見した)

この時に英国は、清との通商を改善しようとした。

だが、弘暦(乾隆帝)がマカートニーに託して英国のジョージ3世に宛てた手紙の内容は、こうだった。

「わが国は無い物はなく、外国と通商する必要はない。

外国は茶葉や陶器や生糸などを求めて来航するから、恵みを与えて撫育しているのだ。」

この手紙を見れば分かるが、当時の中国には平等互恵の通商精神は全くなかった。

(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)

イギリス国王はジョージ・マカートニーを北京に派遣して、次の3つを清の皇帝に要求させた。

①寧波(ニンポー)や天津など、北方にも外国との貿易港を開くこと

②1~2の島をイギリスに貸し与えること

③皇帝が認めた税金以外には、ビタ一文とらないと約束する

マカートニーは、95人の従者と600箱に及ぶ土産物を持って、北京入りした。

乾隆帝に謁見する際、マカートニーは「三跪九叩」の礼を求められた。

これは、ひざまずいて3回頭を床につくまで深く下げるのを、3回くり返す礼であり、「叩頭の礼」ともいう。

マカートニーはこれを拒んだが、乾隆帝はそれを許した。

弘暦(乾隆帝)は、イギリス国王の要求を、「私の行う貿易は夷人たち(お前たち)への恩恵である。とやかく文句を言うな」と、高飛車に断った。

1816年になると、イギリス国王はウィリアム・アマーストを北京に派遣して、再び貿易の改善(貿易の拡大)を求めた。

この時の皇帝は顒琰(嘉慶帝)だったが、三跪九叩をアマーストが拒んだので、会見しなかった。

清朝の中華思想からすると、イギリス国王もフランス国王も清皇帝の臣下であり、朝貢してくる国である。

中華思想から見れば、イギリスらは礼儀を知らないから朝貢してこないだけであって、日本(徳川幕府)も同じであった。

清朝の宮廷から見れば、イギリスは野蛮国であり、貿易は許すが野蛮人の行動は制限しなければならない。

事実、中国に貿易にくる西ヨーロツパ人は、乱暴な行いをする者が多かった。

実はイギリス側も、「東インド会社」というイギリス国王が特許した会社が、中国との貿易を独占していた。

だから清政府が、唯一の開港場である広州に公行(外国商人との貿易独占を許された、中国商人のギルド)をつくって、彼らに貿易を独占させていても、文句を言える筋合いではなかった。

それが1834年になって、東インド会社の中国貿易の独占権が廃止された。

その後、イギリスの商人や資本家は中国との自由貿易を強く求めるようになった。

(この圧力もあって、イギリス政府はアヘン戦争を起こした)

(『中国を知るための60章』明石書店から抜粋)

イギリスの東インド会社は、1600年にエリザベス1世の許で設立された国策会社で、東洋での貿易の独占権を与えられた。

東インド会社は、独自に軍隊を持ち、支配した地域では行政権と警察権を持った。

イギリスの行ったインドの植民地化は、東インド会社の手で進められた。

東インド会社は、植民地にしたインドのベンガル地方で、農民にケシの栽培を行わせた。
そしてアヘンを生産し、船で中国の広州に持ち込んで売った。

(2022年2月14&17日に作成)


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