第二次大戦の終結後の馬占山、その死まで

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

日本が1945年8月に降伏すると、国民党政府の蔣介石は、共産党政府の毛沢東に対して、「重慶で和戦について話し合いたい」と要請した。

そして45年8月28日に重慶で、蔣・毛の会談が行われた。

蔣介石は平和会談の煙幕を張りながら、突然に内戦を起こした。

9月初めに介石は、綏遠の西部から東部と察西の解放区(共産党の管轄区)を攻撃し、張家口を占領しようとした。

馬占山は傳作義と共に、国民党の側で参戦した。

しかし馬占山の軍は、人民解放軍(共産党軍)に大敗した。

占山は間もなく発病し、北平(北京)へ治療に行った。

蔣介石は、東北部の3省(満州)を支配するために、「東北行営(東北保安司令部)」を設置し、莫徳恵、万福麟、張作相、王樹翰らを起用した。

国民党政府は、45年11月頃に東北に軍を進駐させて、都市を占領したが、共産党軍に敗れた。

1947年初めに蔣介石は、東北の民衆に人望が厚い馬占山の再起用を思いつき、占山を東北保安副司令に任命した。

4月8日に占山は、赴任地の瀋陽に到着した。

1948年の初めには、東北3省の国民党の統治は、破局に直面していた。

「内戦に反対、我々を飢餓から救え」との抗議が湧き上がっていた。

国民党の官員は、内戦と飢餓を利用して、投機や買い占めに走っていた。物価は暴騰した。

蔣介石は、東北の劣勢を立て直そうと考えて、陳誠の代わりに衛立煌を東北剿匪・総司令に任命した。

馬占山と万福麟が副司令になった。

しかし東北の大部分は、人民解放軍に占領された。

48年10月に馬占山は、南京を訪れて蔣介石に苦境を救うよう求めたが、介石は自らの戦いで手一杯で応じなかった。

占山は失望し、東北には帰らず、療養のためそのまま北京へ行った。

1948年12月13日に、人民解放軍は北京の包囲を完成した。

同22日に傳作義の主力である第三十五軍が人民解放軍に殲滅され、軍長・郭景雲が自決した。

1949年1月4日に傳作義は、鄧宝珊を北京に迎えた。

14日に鄧宝珊は、傳作義の委任を受けて、薊県に行き共産党と会談した。

この会談で、「北京の平和裡の明け渡し」が合意され、合意内容は13ヵ条にまとめられた。

北京に帰った宝珊は、馬占山、傳作義、王之相、蔡運昇を自宅に招き、交渉の報告をした。

1月31日に人民解放軍は北京に入城し、平和裡に受け渡された。

1949年9月21~31日に北京で、共産党の全体会議が開かれて、毛沢東は中央政府・主席に就任した。

10月1日に北京の天安門広場で、中華人民共和国の建国式典が行われた。
毛沢東は新国家の創立を宣言した。

1950年11月29日に馬占山は病死した。65歳だった。

(2021年6月19~20日に作成)


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