満洲の馬賊について、満洲の歴史

(『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋)

満洲というと、「馬賊」のイメージがある。

馬賊とは、馬に乗った盗賊のことだが、実のところ全員が騎馬というのはまず無くて、頭目と副頭目の他は徒歩が一般的であった。

馬賊は、頭目以外は行商人や労働者などの他の生業をもっている事が多かった。

馬賊と住民は、カネや物資を渡す代わりに、他の馬賊から守ってもらうという、もちつもたれつの関係であった。

本書では、満洲で活動する匪賊の1つのカテゴリーとして、「馬賊」を設定したい。

張作霖といった主要な馬賊は、「保険隊」「大団」の名称で活動し、一定の縄張りを持って、その地の有力者の支援を受けて活動した。

支援者を襲うことはなく、むしろ他の馬賊から守った。

また物資輸送に対しても、通行料を支払えば襲わず、有料で縄張りの外の護送を請け負う者もいた。

こういう馬賊は、掠奪は縄張りの外で行うのが常であった。

馬賊が活動できたのは、公権力が地方の末端まで支配するのは不可能だったからだ。

中国の歴代の王朝は、地方に対して中央から官僚を派遣したが、地方の有力者の協力なしには統治はできなかった。

有力者に治水・福祉・徴税・警察を任せることも珍しくなかった。

地方に派遣された官僚は、信頼できる有力者たちに地方行政のかなりの部分を任せて、上納金とも賄賂ともいえるカネをもらった。

このシステムのため民衆は、公権力に認められた私権力(地方の有力者)の、収奪の対象でしかなかった。

もともと中国では、兵士といえば強制的に徴発されたか応募した者で、食えなくなった者がやる職であり、まともな生業ではなかった。

科挙(役人の登用試験)には文官と武官の試験があったが、武官が強くなって反乱を起こすのを恐れて、文官中心の政治を行い、武官は低い地位にした。
だから科挙といえば、文官科挙を指す。

武官も兵士もやる気がないため、民衆を守る意識はない。

そして戦争で敗れれば、兵卒にはその日の食糧すら支給されないこともある。
だから敗走する軍隊は、掠奪を行った。

民衆からすると、兵士は匪賊と同様の存在であった。

清朝の軍隊は、太平天国の乱で無能ぶりを露呈した。

この乱の鎮圧で活躍したのは、曾国藩や李鴻章が集めた義勇兵「郷団」だった。

この義勇兵は、私的な兵隊で、清朝から見れば危険な存在だった。
それを察した曾国藩は自分の軍を解散させたが、李鴻章は洋務運動の先頭に立ち、自らの軍「淮軍」を強化した。

李鴻章の幕僚の袁世凱は、新建陸軍(新軍)を立ち上げ、西欧式の軍を育てた。
この武力があったから辛亥革命の後に、袁世凱が権力を握ったのである。

袁世凱の死後には、彼が率いた新軍(北洋軍)は直隷派と安徽派に分裂して、軍閥が割拠する状況になったが、これは軍隊の私兵化と大いに関係がある。

軍隊の私兵化は、清朝の政策が大きく影響した。

太平天国の乱の時、財政悪化に苦しんだ清朝は、軍隊に対して「駐屯や進軍に必要な経費は、現地で徴発してよい」と認めた。

そこで現地軍がよく行ったのが、関所を設けて通関税をとる方法だった。

太平天国の乱が鎮定した後、清朝はこの許可を取り消そうとしたが、完全には廃止できなかった。

軍隊に徴税権を認めることは、民衆の生活をさらに苦しめた。
軍の掠奪が、徴税として正式に認められたからだ。

現地軍からすると、あてにならない中央からの送金を待つよりも、現地で税としてカネを調達するほうが早かった。

満洲は、気候が寒冷で農業に不向きのため、長い間、狩猟採集民や遊牧民の居住地だった。

満洲族(女真族)が中国を征服して「清朝」を樹立すると、彼らは首都を北京に遷したが、それまでの首都であった盛京(奉天)を副都とし、北京に準ずる役所を置いた。

清朝は、満洲以外には明朝にならって省制を敷き、漢民族も積極的に登用したが、故郷の満洲には将軍を3人置いて、ほとんど満洲人のみを起用した。

さらに、山海関を越えて漢民族が満洲に移住するのを禁じる「封禁政策」を行った。
これは建国時の状態で満洲を維持するためだった。

しかし清朝の中期以降は、人口の爆発的な増加と、何度か華北をおそった凶作によって、満洲の封禁政策はなし崩しになった。

満洲族の中にも、漢民族を呼び入れて小作人や労働者として土地を耕作させる者が出てきた。

さらには、漢民族に土地を売ってしまう者までいた。

新技術として汽船が登場すると、満洲への移住者は一気に増えて、さらにロシアが中東鉄路(東清鉄道)を敷設すると、移民は奥地にも拡がっていった。

ロシア帝国は、アロー戦争(1856~60年にあった清と英仏の戦争)で清が敗れた時、清と英国の交渉を仲介し、その報酬として「満洲での鉄道の敷設権」と「旅順と大連の租借権」を得た。

ロシアは鉄道建設の拠点として、平原の寒村を開発し、ハルピンという都市を造った。

ロシアは、クリミア戦争(1853~56年)で敗れてバルカン半島への進出に失敗すると、満洲進出に重点を移していた。

現在はロシアの「沿海州」となっている地域は、元は清の領域だったが、ロシアが囚人などを強制移住させて領土化した所である。

ロシアは中央アジアへも進出し、新疆ウイグル族の独立運動(ヤーク・ブ・ベグの反乱)に介入して、新疆のかなりの部分を占領した(1871年のイリ事件)。

1900年に清で義和団事件(義和団の乱)が盛り上がった時、これを受けてロシア軍は満洲全域へ進駐した。

この進駐に満洲の行政官たちは恐れおののき、家族と一緒に逃亡してしまった。

義和団事件が終わってからも、ロシア軍は満洲からなかなか撤兵しなかった。

清はようやく撤兵させたものの、ロシア軍は各地で掠奪と破壊を行い、満洲はさらに弱体化した。

義和団の乱では各地の税務局員が逃亡し、清の徴税業務に多大な支障をきたした。

さらにこの反乱中に、治安悪化から匪賊の横行もひどくなった。

ここで話は匪賊(馬賊)に戻るのだが、カネをかけずに治安維持を行う軍事力を確保する策として、「馬賊を清に帰順させる政策」が浮上した。

中国では昔から、『水滸伝』にも描かれるように、賊と呼ばれるアウトロー集団を政府の正規軍に組み込むことが行われてきた。

上述したように、中国では兵士の地位が低く、高い規律も期待されないので、賊を軍隊に組み込みやすいのである。

清は、帰順した馬賊には従来とおりの自由を認め、過去の犯罪を不問にした上で、匪賊の討伐を命じた。

張作霖は、馬賊としてはミドルクラスだったが、帰順後に自分よりも格上の馬賊を討伐するなど、大活躍した。
この討伐戦で鍛え上げた軍事力が、後の彼の権力の基盤となった。

(2022年3月14~15日に作成)


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