(『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋)
清朝の末期において、抜本的な政治改革を唱えたのが、康有為であった。
彼は日清戦争の敗北にショックを受け、それまでの儒教に基づいた政治を変えようとした。
康有為は、儒教から離れて、それまでの皇帝の独裁政治から、立憲君主制へ移行することを主張した。
康有為は、長らく清朝で禁止されてきた政治結社を結成した。
強学会という名で、名目は学術団体だった。
彼は、清朝の若き皇帝・(光緒帝)に認められ、異例の抜擢をうけて、「戊戌の変法」と呼ばれる改革を行った。
だがこの改革は、影の実力者である西太后に潰された。
西太后は、改革を潰すために「戊戌の政変」を行い、康有為とその弟子の梁啓超は日本に亡命した。
康有為の協力者だった譚嗣同らは、逮捕され処刑された。
光緒帝も、退位こそされなかったが、1908年に亡くなるまで幽閉された。
康有為の改革を阻んだ西太后は、義和団事件(義和団の乱)が起きると、紫禁城(清朝の王宮)から逃げ出す境遇になった。
8ヵ国の外国から来た連合軍が、義和団を鎮圧したが、代償として巨額の賠償金を清朝は強いられた。
1901年に、清朝はついに「変法の詔」(康有為たちが唱えた改革を行うとの皇帝の宣言)を出した。
だが、康有為らが名誉を回復することはなかった。
西太后が本当に日本の脅威を理解したのは、日露戦争の時だったと筆者は考えている。
というのは、この戦争は清朝の発祥地である「満洲」が主戦場となり、満洲を荒廃させたからである。
日露戦争は、日露の朝鮮をめぐる争いと、日露の満洲の権益の争奪戦という性格を持っていた。
満洲が主戦場になったのは、このためである。
日露戦争では、日本軍の犠牲者は20万人だったが、満洲の人々も多数の死者を出し、戦争から逃れる難民も多かった。
難民たちは戦争が終わると戻ったが、住居は焼かれ、耕地は荒らされ、被害は深刻だった。
元から農業生産力の低かった満洲は、義和団事件で荒廃した後に、さらに日露戦争で潰滅的な被害を受けた。
だから復興は容易ではなく、食べていくための掠奪がまん延し、治安が悪化した。
日露戦争後に、満洲の復興を任されて送り込まれたのが、盛京将軍に任命された趙爾巽である。
彼は満洲の中央銀行として「奉天官銀号」を設立し、満洲で初めて本格的な発券銀行とした。
そして紙幣を発行し、戦争中に出回ったロシアのルーブルや日本の軍票を徐々に回収して、金融を安定させた。
さらに徴税も見直し、細分化しすぎていた税目と財務機関を統合した。
これにより、中間搾取で減っていた税収が回復した。
趙爾巽の満洲改革の仕上げは、盛京五部の廃止であった。
五部を無くすことは、盛京(奉天)から陪都(副都)という特別な地位を奪うが、代わりに盛京将軍が軍事だけでなく民政も統括できるメリットがあった。
こうして満洲の軍事と財政を盛京将軍が握り、1907年に満洲の3将軍を頂点とする軍政は廃止されて、新たに省が設置された。
すなわち「奉天省」「吉林省」「黒龍江省」の3つで、「東三省」と総称された。
初代の東三省総督には、徐世昌が任命されたが、彼は漢民族で、満洲人を満洲のトップにするという清朝の慣例もついに崩れた。
初代の東三省総督となった徐世昌は、日露の満洲進出に備えて、防御体制を固める必要があった。
そこで着手したのが、①交通の整備、②三省の財政の統一、③治安維持の強化、④実業の振興であった。
徐世昌が赴任した時、八旗兵を除く兵力は東三省全体でも2.5万人に満たなかった。
そこで彼は、親しくしている北洋軍を率いる袁世凱に頼んで、直隷省から北洋陸軍・第三鎮を移駐させた。
さらに北洋軍の主力からも、選抜した者を移駐させた。
こうして東三省は、軍事力をほとんど北洋軍に依存した。
満洲の馬賊のうち、清朝に帰順した張作霖らは、官軍に入れられた。
だが元馬賊は、安い賃金で酷使され、軍事予算の多くは移駐した北洋軍に使われた。
張作霖らは清軍にとって、使い捨ての存在だった。
だからこそ彼らは馬賊時代の体質から脱却できなかったのである。
徐世昌は、新設した官庁に多くの縁故者を登用し、増税を次々と行ったので、人気を失った。
徐世昌が失脚した直接の原因は、奉天省城における商店の一斉休業である。
世昌は増税したが、その根拠を明らかにしなかったので、総商会が猛反発して一斉に休業した。
同時期に袁世凱が北京(首都)の政界で失脚したのもあって、世昌は転勤という形で東三省から離された。
(2023年10月12日に作成)