(『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋)
張作霖の父は、祖父の代に満洲に定住したらしい。
作霖の父は、小作人として貧しい暮らしだったが、やがて無頼の生活になり、賭博をめぐるトラブルで殺された。
作霖は1年ほど村の私塾に通い、簡単な読み書きはできたが、父が急死したため働くことになった。
そして饅頭売りなどをしたが、父と同じく無頼の生活に入った。
張作霖は、日清戦争の時は軍に入った。
退役後に戦功を誇張して語っていたところ、地主の趙占元に見込まれ、その娘と結婚した。
だが家庭を持っても作霖の生活態度は改まらず、1896年頃に匪賊に身を投じた。
作霖は、誘拐した人質の見張り役に嫌気がさし、その匪賊から脱退した。
その後しばらくすると、趙占元らの援助で「保険隊」を組織した。
「保険隊」は、地主からカネをもらい、外敵の襲来から守る軍事組織である。
張作霖の場合、1ヘクタールにつき銀1両で引き受けたと言われている。
作霖は、保険料をもらっていない地域では、掠奪や暴行や誘拐を展開した。
筆者は、この段階で張作霖が「馬賊」になったと考える。
「馬賊(保険隊)」は、秋の収穫期から1月末にかけて活発に活動した。
その後は活動を控えて、配下たちは分け前をもらって解散する。
そして次の秋口に、また頭目が声をかける、という仕組みになっていた。
配下たちは、馬賊をしていない時期は、行商人や労働者などをしていた。
馬賊は、頭目以外は妻や家庭を持つことは許されない。
馬賊の恋人は、彼らの副業の職場で知り合うことが多かったようだが、ある日に突然に捨てられるか、次の閑散期まで待ったといわれる。
馬賊というと、特殊な稼業に見えるが、市井の人々との垣根は意外に低かった。
宿屋の主などが、被害を避けるために交際していた。
馬賊は、自らの保険区域はトラブルが少なく、他の保険区で蛮行を行うほど、評判は高まる。
だから馬賊同士の抗争は熾烈だった。
張作霖は、近隣の馬賊である金寿山と対立した。
義和団事件(義和団の乱)のあった1900年に、金寿山はロシア軍と手を結び、その別動隊のような存在になった。
そして1901年6月に金寿山は、ロシア軍の援護を受けて、張作霖を襲撃した。
張作霖は自らの保険区を放棄し、20人ほどの配下と八角台へ逃れた。
長男の学良が生まれたのは、この逃避行の途中であった。
張作霖は八角台では、現地の馬賊・張景恵から一団の指揮を任された。
作霖は人望があったようで、景恵は自分より4歳若い作霖に将来性を感じ、自分の保険隊を譲って自らは副頭目になった。
2人は義兄弟となった。
余談だが、張景恵は後に満洲国が生まれると、第2代の国務総理になっている。
日本が戦争に負けて1945年に降伏すると、日本に協力した張景恵はソ連軍に捕らえられ、ついで中国の収容所に入れられて、収容所内で病死した。
張景恵が頭目を張作霖に譲った頃、そこに合流したのが張作相である。
作相は殺人を犯して八角台に逃げ込み、馬賊の頭目の1人になっていた。
後の話になるが、作相は満洲国から協力を要請されたが応じず、戦後になって蒋介石から協力を求められた時にも応じなかった。
張作霖、張景恵、張作相は、周囲から「三張」と呼ばれ、互いに仲が良かったようだ。
湯玉麟は、土黙特旗というモンゴル王公の所領(現在の内蒙古自治区のフフホト市の近く)で生まれた、漢民族の移民の子である。
彼は博徒になり、1896年の夏にモンゴル王公と関係のある者とトラブルになり、傷害事件を起こして逃亡し、匪賊に加入した。
そして1900年頃に張作霖と知り合い、配下になった。
後の話だが、張作霖が出世すると、湯玉麟は1926年から熱河地方の統治を任された。
しかしアヘン、賭博、買春に明け暮れる日々で、住民は悪政に苦しめられた。
湯玉麟は、張作霖への義理を忘れなかったらしく、満洲国ができた時に熱河省長と熱河軍司令に任命されたが、その書状を見るや、こうののしって使者を追い返した。
「張作霖は俺の義弟だったのに、お前たち日本人が殺した。
俺はお前たちの役人になるほどバカじゃないぞ!」
湯玉麟は、日本軍が熱河に攻めてくると戦ったが、あえなく敗れて、華北に逃れて宋哲元の軍に吸収された。
以後は天津に隠居し、1947年に亡くなった。
義和団事件で満洲に進駐したロシア軍は、1902年3月の『交収東三省条約』の締結により、3段階に分けて満洲から撤兵することになった。
これに伴い、満洲を収める清朝の盛京将軍の増祺は、「辦理南路遼河両岸の招撫局」という機関を設けて、遼河流域の馬賊の帰順を奨励した。
馬賊たちを帰順させて、治安を回復しつつ、帰順しない馬賊を討伐させることを、政策にしたのである。
馬賊からすると、帰順すれば過去の犯罪は不問となり、馬賊討伐で戦功をあげれば表彰や昇進もある。
清朝はすでに弱体化しており、財政難ゆえに給与は期待できないが、帰順すれば軍隊として認められて、公然と活動できる。
ただし、帰順した馬賊が処刑される事もある。
だから張作霖は帰順するかでかなり迷ったらしい。
当時、八角台の管轄官であった増韞は、清廉潔白で知られ、女性の纏足を禁じるなど、開明的な人だった。
だから人々の尊敬を集めていた。
その増韞が、張作霖に対して「過去の罪を問わず、しばらくは従来どおりに保険料をとるのも許す」と認めたので、張作霖は1902年8月に帰順を決めた。
張作霖が帰順すると、翌月にはさっそく匪賊(馬賊)の討伐を命じられた。
これは忠誠心を試すテストだったろう。
テストに合格したらしく、作霖は1902年10月に「新民府・地方巡警前営馬隊」の副隊長に任命された。
翌年には歩兵隊が加わって485名に増強され、作霖は隊長に昇進した。
作霖は、騙し打ちを得意とし、大小の匪賊を討伐した。
日露戦争が始まると、ロシア軍は金寿山らの満洲馬賊を利用し、「花膀子隊」を組織した。
日本軍はこれに対抗し、花田仲之助らが「東亜義勇軍」を組織して、日露両軍は馬賊・匪賊の争奪戦をくり広げた。
この事は、後の日本軍の謀略工作(第一次・満蒙独立運動や第二次・満蒙独立運動など)に多大な影響を与えた。
張作霖らのいる八角台の近辺では、杜泮林の一族が大規模な匪賊稼業をしていた。
杜泮林の甥の杜立山は、遼河流域を代表する馬賊だった。
杜泮林は、張作霖の後見人をしていた時期もある。
遼河は、遼東半島の中央を流れる大河で、遼河の両岸にはモンゴル族が長らく居住してきた。
しかし現在の台安県の一帯は沼や沢が広がっていて、新開地のおもかげを残していた。
遼河の流域は、モンゴル族が多くて馬の文化があり、農耕に不向きな土地であったから、生活苦から馬賊が発達したと考えられる。
馬賊の杜立山は、父をはじめ親戚がみな馬賊という家に生まれた。
杜一族は、大地主で広大な耕作地をもち、厳しく小作料を取り立てていた。
この一族は、公然と検問所を設けて通行料を取り、さらに営口を通る船からも通行料を取った。
杜立山は、馮徳麟の配下として馬賊のキャリアをスタートし、やがて独立して自分の集団を形成した。
日露戦争が始まると、盟友の馮徳麟に誘われて、日本の「東亜義勇軍」に参加した。
馮徳麟は、貧農の子として生まれ、17歳の時に匪賊に加わった。
彼は「保険隊」の先駆者で、日露戦争の頃には馬賊の筆頭格だった。
1904年4月に、馮徳麟は日本の特務機関に買収されて、杜立山を誘って「東亜義勇軍」に参加した。
馮徳麟は、ロシア側についていた金寿山を説得して、04年夏ごろに日本側に寝返らせた。
彼らは日本軍の期待にこたえて、各地でゲリラ戦を展開した。
最終的に日露戦争での馮徳麟の戦績は、将校を30名以上射殺、兵士を千人以上射殺で、戦利品は牛1420頭、羊53頭、衣類50枚以上との記録がある。
記録されていない掠奪・暴行は、はるかに多いはずで、それを思うと溜息が出る。
日露戦争の戦場となった満洲の住民は、日露の両軍の他にも、買収された中国人の別動隊からも被害を受けたのである。
清朝は、日露戦争では「局外中立」を両軍に宣告した。
清朝の官軍に入った張作霖も、軍事行動を慎んだと思われる。
ただし『対支回顧録』などの日本の史料では、「張作霖は日露戦争で日露両軍のスパイとして働き、それが発覚して日本軍に処刑されそうになったが、田中義一・満洲軍参謀らが嘆願して助命させた。以後、張作霖は日本に頭が上がらなくなった」とのエピソードが語られている。
日露戦争の終わった1905年に、馮徳麟と金寿山は日本軍の口添えにより、清朝への帰順を果たした。
これは、日本軍としては論功行賞のつもりだったのだろう。
馮徳麟の帰順を世話した辺見勇彦の回顧録『馬賊奮闘史』によると、最初は清朝側は帰順を認めず、勇彦は馮徳麟と共にひとまず退出し、福島安正・満洲軍参謀にとりなしを依頼した。
帰順について緊迫した駆け引きがあったようである。
なお金寿山は、帰順後も強奪や人質誘拐といった犯罪をやめなかったため、「官匪」として恐れられた。
後に張作霖に騙し討ちされて、銃殺されたという。
杜立山は、日本軍の指揮を受けるのを嫌って、単独行動を多くしていたため、日本からの口添えを得られず、帰順の機会が与えられなかった。
結局、杜立山は馬賊として清朝の討伐対象となり、張作霖に討たれることになった。
日露戦争の後、張作霖はまず杜立山の討伐にあたった。
杜立山は、田玉本という馬賊と手を組んで、不法行為を続けていた。
張作霖はまず田玉本を討ち、ついで杜泮林に甥の杜立山の説得を依頼した。
杜立山が説得に応じて現れると、張作霖は祝いの宴席をもうけて接待し、一瞬の隙をついて捕縛した。
杜立山は護送され処刑された。
張作霖は馬賊の討伐を続けたが、その中で孫烈臣と意気投合した。
孫烈臣は忠実な部下となり、後に張作霖が権力をもつと黒龍江省の省長などを歴任したが、1924年に亡くなった。
(2023年10月12~13日に作成)