(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋
2026年10月15日に作成)
敦煌の鳴沙山の山腹には、たくさんの石窟寺が掘られているが、そこから古文書が大量に見つかった。
崖面に横穴を掘って石窟を送るのは、インドが起源だろう。
敦煌の石窟寺は4世紀の半ば、西涼時代に造られ始め、現存するのは490余りだ。
その石窟寺の第17窟と呼ばれる所から、大量の古文書が見つかった。
発見者は王円籙(おうえんりょく)という道士で、第16窟に住んでいた人である。
仏教の寺に道教の道士が住んでいるのは変な話だが、諸教が混合する中国では珍しいことではない。
王は自分の住む第16窟の隣りの第17窟に隠し部屋があると気付き、そこで大量の古文書を見つけた。
しかし彼は文字の読み書きができず、その値打ちが分からなかった。
彼は発見したことを役所に届け出たが、当時の中国政府は義和団事件のまっ最中で混乱しており、届け出を無視した。
1907年に英国人のオーレル・スタインがこの古文書を買い付けに来た時、王は値打ちが分からないので、わずか馬蹄銀4枚で大量を売り渡してしまった。
スタインは王をまるめ込んで買い叩き、29の大箱に詰めてロンドンに送ったと言われている。その総数は一万点を越すだろう。
大英博物館に保管してあるが、まだ整理が完了していないそうだ。(※この本が出版されたのは1994年10月である)
翌1908年にはフランス人のポール・ペリオが来て、王から6千点ほど買い取った。
これはパリの国立文書館にある。
私はここに行って現物を閲覧したが、どれもしっかりした紙に書かれていた。
外国人が貴重な古文書を買って持ち去ることに衝撃を受けた中国の知識人や清朝政府は、残っている敦煌古文書8600点余りを1910年に首都・北京に送って保全した。
だが王はまだ隠し持っていたようで、1912年に日本の大谷探検隊はかなりの古文書を王から買い取っている。
ロシアのオルデンベルク隊もかなりの量を買った。
第17窟で見つかった古文書で年代が明記されているもののうち、最も新しいの996年である。
だから第17窟が密封されたのは、その少し前だと推測できる。
チベット高原では、ソンツェン・ガンポ王が641年の唐の太宗(皇帝)の娘と結婚し、唐と友好関係に入った。
ちなみにソンツェン・ガンポ王は、チベット独自の文字を制定した人だ。
755年に安禄山と史思明の反乱が唐で起きると、その混乱に乗じてチベット人は中国に侵攻した。
763年にチベット軍は、遠征して唐の都・長安を攻め落とした。
この時のチベット軍の狙いは、中国西部にある武威郡、張掖郡、酒泉郡、敦煌郡を自らの支配下に入れることだった。
この戦争で敦煌はチベット領となり、それは60年も続いた。
だから敦煌文書にはチベット語のものも多い。
チベット王国が敦煌を領土にして60年後に、チベットではランダルマ王がボン教の信者となり、国教である仏教を排斥したので、クーデターが起きてランダルマ王は殺された。