(以下は『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋
2020年12月12日にノートにとり勉強
2026年11月3日に作成)
宋教仁は、中国の革命に「満洲の馬賊」を利用しようとした。
宋教仁は、黄興と共に「華興会」を創設し、革命派の次世代リーダーと期待された人だ。
彼は中国民国の成立後には、臨時約法の制定に関わり、国民党を率いて総選挙で勝利した。
だが国会が開く直前に、袁世凱によって暗殺された。
宋教仁は、日本に亡命中に日露戦争の推移を見て、日露戦争の戦場となった満洲に強い興味を持った。
知り合った日本人に馬賊の事情に詳しい人(萱野長知や古川清)がいたことで、満洲への関心は増した。
彼は1905年に『二十世紀之梁山泊』を書いたが、そこでは馬賊たちを日本派やロシア派などに分類し、活動地や特徴を記している。
宋教仁は1907年に、同志に満洲の調査をさせて、満洲と朝鮮の国境にある間島地方の馬賊に好感触を得た。
やがて彼は古川清と満洲に渡り、馬賊たちの決起を呼びかける檄文を書いた。
そして間島を根拠とする李逢春や韓登挙から歓待された。
彼はこの時に、中国同盟会の遼東支部を設立したといわれている。
だが結局、同行した古川清の密告で、蜂起計画が洩れてしまい、宋教仁らは再び日本に亡命せざるを得なくなった。
なお、宋教仁に馬賊とされた武装集団は、実際には土豪(大地主)や自警団のような集団も含まていた。
宋教仁は1908年?に『間島問題』を書いたが、間島は清朝の固有の領土であると主張したため、西太后の目にもとまった。
革命派の軍人の呉禄貞も、1907年に間島の馬賊の懐柔工作を担当し、翌08年に『延吉通務報告書』を書き間島を清朝の領土とした。