タイトル後漢朝で権力を握った外戚と宦官、悪政が続く

(以下は『人間三国志4』林田慎之助著から抜粋)

後漢朝はだいたいのところ、桓帝(劉志、146~167年に在位)より前は外戚勢力が権力を握り、桓帝以後は宦官が権力を握った。

外戚が権力を握ったのは、後漢朝の4代目の和帝が10歳で即位してからである。

和帝の時は、母である竇(とう)太后の一族が権勢をふるった。

8代目の順帝が11歳で即位すると、皇后の兄である梁冀が政治を壟断した。

梁冀は顔が醜く無教養だったが、妹2人が順帝と11代目の桓帝の皇后になった。

なお9代目の冲帝と10代目の質帝は、わずか1年ずつの在位であった。

質帝は子供ながらもある日、臣下の並ぶ前で梁冀を指さして「跋扈将軍だ」と言ったので、その日のうちに梁冀に毒殺されてしまった。

余談だが、梁冀の妻・孫寿は、梁冀が友通期という女と浮気した時、息子の梁胤に命じて友氏の一族を皆殺しにした。

それでいて孫寿は、梁冀の家令と浮気していた。

梁冀は20余年にわたって権力を握ったので、朝廷への貢ぎ物は梁冀の所に届くようになり、昇進したい官吏たちは彼に賄賂を贈った。

梁冀は政敵の李固を倒すと、驕りがさらに酷くなった。

彼の妹の梁皇后(桓帝の妻)も、傍若無人のふるまいで、逆う者はことごとく毒殺した。
このため1人として国家をおもって進言する者は居なくなった。

最終的に梁冀は、桓帝が宦官たちと結託して起こしたクーデターで殺された。

梁冀が殺された時、彼の財産は没収されて競売にかけられたが、その総額は30数億銭となり、後漢朝の1年の租税の半分にあたったという。

後漢朝は光武帝が興したが、彼は後宮の使用人に去勢された男(宦官)だけを使うことにした。

これが宦官が権勢をふるう元になった。

4代目の和帝は、大人になるにつれて外戚の竇氏が目障りになり、宦官の鄭衆に命じて竇氏の排除に成功した。

この功績で鄭衆は破格の出世をしたが、これが宦官が権力を持つ始めとなった。

和帝の妻である鄧皇后(鄧綏、とうすい)は、自分に子は無かったが、生後3ヵ月の殤帝(しょうてい)を5代目の皇帝にして、権力を握った。

翌年に殤帝が死ぬと、鄧太后は劉祜を皇帝(安帝)にして、それから19年も権勢をふるった。

鄧太后は国政をとりしきるにあたり、後宮の宦官たちを使ったので、宦官たちの権力が増していった。

6代目の安帝の時代になると、宦官の定員が増え、大臣になる者も現れた。

曹操の祖父の曹騰は、安帝の時代に自ら去勢し宦官として仕官した。

曹騰は鄧太后に気に入られて、皇太子(のちの順帝)の学友に技摺された。これが出世につながった。

10代目の質帝が梁冀に殺されたのは前述したが、この時に曹騰は梁冀と組んで、劉志を次の皇帝に就けた。
これが11代目の桓帝である。

質帝が亡くなった時、太尉の李固らは英明な劉蒜(りゅうさん) を次の皇帝に推した。

曹騰は梁冀に対し、「厳格で英明な劉蒜さまが帝位に就けば、たちまち脛に傷を持つあなたたちは失脚します。なんとしても劉志さまを擁立し、富貴を保ちましょう。」と助言した。

梁冀はこれをきいて劉志擁立を決意し、劉志が即位した。

この功績で曹騰は皇帝の侍従長に昇進し、宦官の最有力者となった。

曹騰は30余年も宦官として働き、その間に虞放、辺韶(へんしょう)、延固、張温、張奐、堂谿典(どうけいてん)らの名士を推挙した。

曹騰が死ぬと、養子の曹嵩は1億銭で太尉の官位を買った。

若年で即位した桓帝は、大人になるにつれて自分が傀儡にすぎないと知り不満を高めた。

159年に梁皇后が死ぬと、桓帝は梁氏一族を追放するクーデター計画を練った。

『後漢書』の梁冀伝は、桓帝がクーデターを目論んだ経緯をこう書いている。

「梁冀の妻・孫寿の叔父である梁紀は、宣氏と結婚した。

宣氏には前夫との間に猛という娘がいて、猛が桓帝の後宮に入ったところ桓帝の寵愛を受けた。

それで梁冀は、猛の姓を梁氏に替えて、自分の外戚という立場をさらに固めようとした。

この改姓に宣氏が反対したので、梁冀は宣氏を暗殺しようとしたが、これを宣氏は桓帝に報告した。

桓帝は激怒し、梁冀を殺すクーデターを計画した。」

桓帝はクーデターを決意すると、まず宦官の唐衡(とうこう)に相談した。

桓帝は密談をするため、厠(かわや、便所)に唐衡を呼んだ。
なお漢朝の皇帝の厠は、豪華な広間になっていて、2人の侍女が香袋を持ってはべった。

ちなみに前漢の武帝は、便器にまたがった状態で臣下に会ったり、目をつけている女を厠に呼んでそこでセックスしたという。

相談された唐衡は、宦官仲間の単超(ぜんちょう)、具瑗(ぐえん)、左悺(さかん)、徐璜(じょこう)もクーデター計画に加えた。

彼らが「梁冀を除くのは難しくありませんが、陛下の心に迷いが生じないかが心配なのです」と言うと、桓帝は単超の肘を噛んで血を出し、その血をすすって契約の証を立てた。

クーデターは成功し、梁冀と孫寿は自邸で自殺した。

梁氏の一族は全員逮捕され、さらし首となった。

梁氏派の役人が全て免職になったので、朝廷内は無人になったという。

クーデターに参加した上記5人の宦官は、桓帝から列侯に封じられ、5侯と称した。

以後この5人は奢侈にふけり、掠奪を欲しいままにしたが、桓帝は厚遇し続けた。

5人は大邸宅を建て、美女を手当たりしだいに妾にした。

彼らの親族は各地の刺史や太守に任命された。

桓帝の下で政治は乱れたが、政治批判をした者は一族皆殺しになった。

宦官の数は増え、彼らの屋敷が各地に建ち並んだ。

全国の地方官の半数以上が宦官の一族という、異常事態が生まれた。

桓帝の下で5侯ら宦官が勝手放題するのを見かねた白馬県令の李雲は、上奏文を出した。

「今は小人たちが皇帝にへつらって出世し、賄賂が公然と行われています。このままでいいのでしょうか。」

読んだ桓帝は激怒し、李雲は宇獄に収監された。

五官掾(ごかんえん、郡の属官)の杜衆は、李雲の肩を持ち、「李雲と共に死にたいです」と申告した。

桓帝は杜衆も牢獄に入れた。

大鴻臚(だいこうろ・外相)の陳蕃は、上奏文でこう述べた。

「李雲は皇帝に逆らいましたが、国家への忠義からです。
もし李雲が殺されれば、暴君の紂王が比干の心臓をさいて殺し、人々からそしりを受けたのと同じになるでしょう。」

桓帝は不敬罪として陳蕃を免職し、李雲と杜衆を獄中で殺させた。

陳蕃は、李固の推挙で出世した人だった。

李固は正義感の強い人だったが、梁冀との政争に敗れて、梁冀によって無実の罪におとされて殺された。

陳蕃が李雲事件に連座して罪を負い、免職になったのが159年6月だった。

しかし半年たった同年12月に光禄勲に任命された。桓帝に気に入られていたのだろう。

陳蕃は復職すると、桓帝の後宮に女性が数千人もいて贅沢しているのを指摘し、桓帝を諫めて官女を500人減らした。

160年1月に桓帝は、大赦令を出した。

この時、147年に死去していた李固の名誉も回復したが、李固の3人の男子のうち、李基(りき)と李茲(りじ)は連座して殺されていた。
李燮(りしょう)だけが逃亡して10余年も隠れ暮らしていた。

李燮が晴れて都に戻った時、その姉はこう言った。

「あなたは救われましたが、人との交わりを断ち、みだりに往来しないように。

梁冀を非難するのもいけません。梁冀を非難すれば、桓帝のおとがめを受けることになるでしょう。」

李燮は姉の教えに従って生きたという。

(2025年5月30~31日に作成)


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