タイトル第一次・党錮の禁(党錮の大獄)

(以下は『人間三国志4』林田慎之助著から抜粋)

後漢朝の後期に、良心的な知識人は「清流派」と呼ばれた。

彼らが清流派と呼ばれたのは、宦官らの「濁流派」に反抗したからである。

当時の朝廷は、無能な皇帝と、濁流派の勢力が政治を腐敗させた。

皇帝に寵愛される宦官たちは、自らの一族を各地の行政長官に任命した。

その地方長官たちは、民衆に重税を課し、私腹を肥やして、婦女を略奪し、旅人を襲って荷物を奪った。

これに対し清流派が政治改革を唱えると、濁流派は「党錮の禁」を進めて清流派を弾圧し追放したのである。

後漢朝の12代目の皇帝である霊帝の時代も、それまでと同様に宦官の悪政が続いた。

霊帝は、宦官の張譲を「わが父」と呼び、宦官の趙忠を「わが母」と呼んだ。

後漢の後期は、おびただしい数の私塾があった。

私塾にはそれぞれ、百から千の学生がいたという。

また首都・洛陽には、600石以上の貴族の子が学ぶ、当時の最高学府である「太学」があり、そこには3万人余りの学生がいた。

この学生たちの多くは役人・官僚になるのを目指したが、宦官たちが要職を独占して仕官の道が閉ざされたので、学生たちは政治批判を強めた。

学生らのうっぷんが爆発した結果、党錮の禁につながるのである。

当時、学生たちから人気のあった名士は、郭泰、賈彪、符融、李膺(りよう)らであった。

郭泰と符融は、田盛、許劭(きょしょう)、許靖(きょせい)と共に、人物鑑識眼の持ち主として有名だった。

また李膺は、符融と会う時は他の客は絶って符融の言論に聴き惚れたという。

郭泰と田盛は同郷人で、2人とも各地に遊び、死ぬまで仕官しなかった。

曹操が若い頃に許劭を訪ねて、無理矢理に自分の鑑識を求め、許劭が「君は清平の姦賊にして、乱世の英雄だ」と言い、曹操が喜んだのは有名な話である。

郭泰は、符融の紹介で李膺に会い、李膺の抜擢を受けて世に出た。

郭泰は貧しい庶民の出だが、学問して、学才を河南の尹である李膺に認められたのである。

河南の尹とは、今でいうと東京都知事のような職で、首都・洛陽の行政長官である。
李膺は159年にこの職に就いた。

郭泰は身長が8尺もあり、各地をめぐって人物を鑑識し、人材の発掘につとめた。

司徒の黄瓊や太常の趙典は、郭泰を召し抱えようとしたが、郭泰は応じなかった。

仕官をすすめる者に対し郭泰は、「私は夜は天文を見て、昼は人事を考えてきた。天が見放した漢朝は、もはや支えようがない」と答えた。

郭泰は政治論議を避けたので、 党錮の大獄が起こり多くの名士が逮捕された時、郭泰と袁閎(えんこう)だけはまぬがれた。

李膺は、名門の出で、同郷(潁川郡)の荀淑と陳寔(ちんしょく)を師友とした。

荀淑は、曹操の軍師となった荀彧の祖父である。

陳寔は、貧家の生まれで地方の役人(太丘県の長)で終わったが、徳行で天下に知られた名士だった。

ある夜、陳寔の家に盗人が入り、梁の上に隠れた。

陳寔はこれを見つけると、家人を呼び集めて言った。
「不善の人も元からの悪人ではない。習慣によってついにここに至ったのが梁上の君子である。」

これを聞いて盗人はおおいに驚き、降りてきて罪を詫びた。

陳寔は、「君の顔を見るに悪人ではない。深く己れに剋って善に帰りなさい。」と言った。

陳寔は罰せずに、盗みに入ったのは貧困だからだとして、その盗人に絹二匹を与えた。
それからというもの、太丘県は盗人がいなくなったという。

なお陳寔の孫が、曹操に仕えて司空まで昇進した陳羣である。

李膺は当時の代表的な名士の1人だが、それは良政をしようと尽くしたからだ。

彼は後漢朝に仕官すると、青州刺史などを歴任し、烏桓校尉になって異民族の烏桓を討伐した。

156年には度遼将軍に任命されて匈奴討伐に出たが、匈奴たちは彼が来ると降伏し、掠め取っていた男女を全て送還した。
李膺の名はそれほどに轟いていたのである。

165年3月、北海郡太守の羊元羣(ようげんぐん)が退職した。

羊はこの時、同郡の役所のトイレが優れた造りなので、それを解体して自邸に持ち帰った。

当時、河南の尹(洛陽の行政長官)をしていた李膺は、公共物を横領したとして、羊元羣の罪を上奏文で桓帝に伝えた。

ところが、羊が宦官に賄賂を贈ったので、逆に李膺が罪人として獄につながれた。

同じ頃、悪事を働く宦官を除こうとした延尉の馮緄(ふうこん)と大司農の劉祐も、李膺と同様に囚人に落とされた。

5侯(桓帝のクーデターで活躍した宦官5人)の1人である単超は、弟の単遷が山陽郡の太守になっていた。

単遷が罪を犯して入獄したので、司法官の馮緄は死罪にしようとした。

だが宦官たちにより、逆に馮緄が牢獄に入れられてしまった。

また、宦官の蘇康と管覇が各地の良田を独占したので、大司農(大蔵大臣)の劉祐はこれを没収しようとした。

しかし桓帝の怒りを買い、牢獄に入れられた。

太尉の陳蕃は165年11月に、上奏文を書いて、こう説いた。

「罪人となった李膺、馮緄、劉祐らは、邪臣を退けるため法を明らかにしたまでです。」

さらに司隷校尉(警視総監)の応奉が弁護したことで、李膺たちは赦免された。

赦された李膺は、その後に司隷校尉に任命された。

これを見て、悪事を重ねてきた宦官・張譲の弟である張朔(ちょうさく)は、震え上がって兄の屋敷に逃げ込んだ。

李膺は部下を連れてそこに踏み込み、張朔を逮捕してすぐに処刑した。

弟を殺された張譲は、このことを桓帝(後漢の11代目の皇帝)に訴え、李膺は呼び出された。

桓帝が「なぜすぐに死刑にした」と詰問すると、李膺はこう答えた。

「私が司隷校尉になって早くも10日が経ちます。
罪人の逮捕が遅いとお咎めを受けると思っていましたが、早すぎたとは意外です。

私は死罪になる覚悟はできています。

格別のおぼしめしで、5日の猶予を下さい。
その間に元凶ども(悪事をなす宦官ども)を皆殺しにします。私の一生のお願いです。」

李膺の気迫に圧倒された桓帝は、後ろに控える張譲に振り向き、「やはりお前の弟の罪じゃな、李膺に落度はない」と言うしかなかった。

宦官たちは李膺を恐れたが、天下の士大夫たちは李膺の正義を称えた。

当時の太学生の間では、こんな歌が発行した。

「天下の模範は李元礼(李膺)。強権を恐れぬのは陳仲挙(陳蕃)。」

166年に5侯の1人である徐璜の兄の子・徐宣は、下邳県知事になっていたが、汝南太守である李暠(りこう)の娘を求めた。

断わられた徐宣は、李暠の家に行って娘を奪い、射殺した。

これを知った東海国の相をする黄浮は、徐宣の一家を捕まえて処刑した。

いっぽう、宦官(中常侍)の侯覧は、故郷において彼の一家が民を苦めていた。

そこで山陽太守の翟超(てきちょう)は、張倹に命じて侯覧の罪状を朝廷に提出させた。

これを侯覧が握りつぶしたので、怒った張倹は侯覧の実家と墓を壊して財産を没収した。

宦官たちが桓帝に訴えたので、桓帝は翟超と黄浮を牢獄に送った。

宦官たちは、不正を摘発する(清流派の)役人たちに恐れをなし、「李膺ら清流派の200余名が、私党を組んで風俗を乱している」と桓帝に訴えた。

桓帝は激怒し、彼ら(党人)の逮捕を命じた。

これが、『第一次・党錮の禁』と言われる大獄の始まりだった。

この時、後漢王朝は滅亡へ確実に歩み始めたのである。

第一次・党錮の禁は、牢脩(ろうしゅう)という男が李膺たちを中傷する、次の上奏文を出した事から始まった。

「司隷校尉の李膺らは太学の学生を手なづけて、地方の知識人とも連絡し、私党を結んで、朝廷を誹謗しています。」

この上奏文は、宦官の差し金だったろう。
一介の男ができる規模の中傷(密告)ではないからだ。

これに桓帝は激怒して、「私党の輩を逮捕せよ」と全国に命じた。

逮捕される清流派の者は200人を超え、逃亡した者には懸賞金がかけられた。

陳寔にも逮捕状が出たが、陳寔は自ら出頭して入獄した。

宦官の汚職を摘発していた杜密や范滂も逮捕された。

逮捕者の取り調べは宦官の王甫が担当した。
拷問が行われたので、私党を組んで天下を乱そうとしたと嘘の自白をしてしまう者も出た。

翌167年に尚書の霍諝(かくしょ)と城門校尉の竇武(とうぶ)が嘆願したので、牢獄に入れられた者たちは釈放されたが、彼らは終身禁錮となった。

この禁錮とは官職に就けぬことで、清直の士はすべて免官となり、悪臣ばかりがはびこる事になった。

李膺は山中に隠居したが、これを見て天下の士は隠棲を良しとし、朝廷を汚穢(おわい)と見なした。

(2025年5月30日~6月3日に作成)


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