タイトル第二次・党錮の禁(党錮の大獄)
宦官が外戚に勝ち、政治弾圧する

(以下は『人間三国志4』林田慎之助著から抜粋)

167年12月に、桓帝(後漢朝の11代目の皇帝)が死去した。

桓帝には男子がなく、竇皇后(竇妙)とその父・竇武(とうぶ)は、劉宏を次の皇帝に選んだ。
これが霊帝である。

劉宏は、まだ10代前半の少年だった。

霊帝が即位すると、竇武は大将軍に任命されたが、彼は清流派の人で、賄賂を取らない人だった。

竇武は名士の1人で、生活を質素にし、余計な金銭や物が手に入ると太学の学生や道端にあふれる貧民に施していた。

免官になっていた名士の陳蕃も、太傅(皇帝の後見役)に任命された。

この人事を見た人々は、ようやくまともな政治が行われるかと期待した。

ところが、竇妙(竇太后)が後宮の宦官たちに籠絡され、宦官の曹節や王甫が権力を持ち始めた。

竇武は、陳蕃や尚書令の尹勲らと、宦官を誅滅する計画を練り始めた。

そして第一次・党錮の禁で免官になっていた、李膺、杜密、陳寔らを官職に復帰させ、計画に参加させた。

168年5月、不吉の前兆とされていた日食が起きたのを機に、竇武は竇太后にこう持ちかけた。

「宦官は昔は雑用係だったのに、今では政治の大権を握り、その子供たちが各地の行政長官になって横暴のかぎりを尽くしています。
このさい宦官を1人残らず誅殺すべきです。」

父親の決死の上奏だったが、竇太后は首を横に振った。

彼女は幼帝に代わって最高権力者となっていたが、後宮において宦官が手足となって働いていた。
彼女は自分の権力を保ちたくて断ったのである。

結局、宦官のうち管覇と蘇康を処刑するだけにとどまった。

竇太后のこの決断は、最終的に竇氏を不幸のどん底に突き落とすことになる。

思い通りにいかず焦った竇武と陳蕃が頼ったのは、占星術だった。
当時は占星術が広く信じられていた。

168年8月に星の運行で、金星が朝廷を象徴する太微垣(たいびえん)に入った。
これを不吉の予兆と見た侍中の劉瑜が竇太后に上奏し、竇武と陳蕃にも知らせた。

これを聞いた竇武と陳蕃は、宦官一掃の時だと考えて決起した。

竇武と陳蕃はまず、悪名の高い宦官である鄭颯を捕まえて、厳しく取り調べた。

そして悪事に曹節と王甫が荷担していると暴いた。

曹節・王甫らの逮捕を求める上奏文が作られ、竇太后に届けられることになった。

ところがこの上奏文は宦官の手に渡り、宦官たちは血をすすり合って竇武たちの誅滅を誓った。

曹節は霊帝を促して、全ての禁中の門を閉じさせた。
さらに皇帝の秘書を白刃で脅して、竇武らを逮捕させる詔書を書かせた。

王甫はこの詔書を持って勅使となり、宦官を取り調べていた尹勲と山冰(さんびょう)を逮捕して殴り殺し、鄭颯を救出した。

王甫と鄭颯は長楽宮(皇太后の宮殿)に行って竇太后を脅し、玉璽を押した文書を奪って、詔書を自由に発行できるようにした。

一方、竇武は甥の竇紹と共に挙兵し、「宦官どもが反逆した。私の下で奮戦すれば厚い恩賞を与える」と号令した。

陳蕃は王甫によって逮捕され、すぐに殺された。

王甫は軍や警察を率いて、張奐の軍と合流し、竇武の軍と対峙した。

不利と見た竇武軍の兵は次々と投降し、竇武と竇紹は包囲されて自殺した。

この直後、竇氏の一族は食客に至るまで皆殺しになった。

竇武に加担した馮述と劉瑜も一族皆殺しとなった。

竇太后は宮中の高楼に幽閉された。

陳蕃の家族は、比景(ベトナム)に流された。

これが168年9月のことであった。

その後、竇太后は幽閉されたまま172年6月に死去した。

彼女は、寵愛した曹節と王甫の手によって幽閉され、憂悶のうちに亡くなった。

169年の夏に、雹が降った。

この変事を受けて張奐は、「宦官と女官の専横が原因」とする上奏文を出した。

張奐は、先年に帰京したばかりで事情の分からぬまま竇武を討ったことを、後悔していた。

張奐は三公を選ぶ際も、宦官たちが推す候補者に異議を唱えた。

怒った宦官たちは、「張奐は私党を組んだ」と言って追放した。

この追放は、冬に始まる「第二次・党錮の大獄」の前触れであった。

清流派の張倹は、166年に宦官・侯覧の一家の悪事を暴く上奏文を書いた人だが、169年10月に突如として告発された。

私党を組んで国家を危うくしたとの告発が、14歳の霊帝に上奏されたのである。

霊帝は張倹の逮捕を命じた。張倹は逃亡した。

宦官の曹節はこの機会をとらえて、清流派の知識人たちの逮捕を命じた。

李膺ら百余人に逮捕状が出たのである。

李膺は天命と覚悟したらしく、自ら出頭したが、獄中で拷問にかけられて死んだ。

李膺の妻子は流罪となり、門人たちは禁錮(※官界からの追放処分)の刑となった。

この『第二次・党錮の大獄』では、范滂にも逮捕状が出た。

出頭してきた范滂を見て、県知事の郭揖(かくゆう)は「一緒に逃げましょう」と説いたが、范滂は「君に罪を及ぼすわけにいかない。それに老いた母を置いていけない」と言って断わった。

最後の別れをする范滂に対し、老母は「お前が李膺様や杜密様と並び称されるようになるなら、私は死んでも恨まない」と励ました。

つい先頃まで潁川太守だった巴粛にも逮捕状が出た。

巴粛が出頭すると、そこの県知事も「一緒に逃げましょう」と言ったが、巴粛は断った。

范滂と巴粛も投獄されて殺された。

杜密と劉儒は獄中で自殺し、魏朗は出頭命令を受けると自殺した。

逮捕状が出た者のうち、幾人かは逃亡したが、黄巾の乱が184年に起きて直後に大赦令が出るまで、16年間ずっと逃亡生活を強いられた。

『後漢書』によると、党錮の大獄に巻き込まれて流罪や免官になった者が、600~700人に及んだ。

朝廷に残ったのは、愚かな皇帝(霊帝)と、それを操る宦官で、国家を私物化するようになった。

収奪に耐えかねた民衆は、やがて黄巾の乱を起こすのである。

上述のとおり、逮捕状が出た時に張倹は逃亡したが、逃亡中の彼をかくまった罪で死刑になる者は数十人に及んだ。

孔融の兄・孔褒も、張倹をかくまったことで死刑になった1人である。

184年に大赦令が出て、ようやく張倹は故郷に帰ることかできた。
朝廷は改めて彼を政府高官に任命しようとしたが、彼は応じなかった。

故郷に戻った彼は、飢饉で民衆が苦しんだ時、家財を投じて県民に与え、助かった者は何百人にも上ったという。

夏馥(かふく)も、第二次・党錮の大獄で逮捕状が出て、逃亡した。

彼は山中に逃げて変名を使い、鍛冶屋の奉公人となった。

数年後、弟の夏静が高価な絹を馬車に積んで旅して兄を捜していたところ、町でばったり兄に出会った。

ところが夏馥は知らぬ顔で口をきかず、仕方なく夏静は兄の後をつけて、同じ旅館に泊まった。

すると真夜中に夏馥は弟を呼んで言った。
「私は宦官におとしめられたが、何としても生き延びるつもりだ。
お前が絹を積んで私を捜し歩くと、お前を禍いが追いかけてくるぞ。」

夏馥は夜明けに去ったが、これが兄弟の別れとなった。
その後の夏馥の行方は杳として分からない。

陳寔は、第一次・党錮の大獄では連座したが、第二次・党錮の大獄では難をまぬがれた。

その理由は、大物宦官である張譲の父が亡くなった時、清流派の名士でただ一人、葬儀に参列したからだった。

宦官の袁赦は、汝南の名門である袁氏を同姓だというだけで尊崇し、なにかと援助した。

そのため党錮の大獄に汝南の袁氏は引っかからず、富貴な生活を持続できた。

汝南の袁氏のうち、袁閎(えんこう)だけは一族の生き方に疑問を持って、自ら農耕し学問を修めていた。

第二次・党錮の大獄が起こると、袁閎は自宅に隠し部屋を作り、 そこに入って母親に飲食を差し入れてもらう生活に入った。
彼は妻子とも会うのを拒んだ。

この部屋に身を潜め続けて、18年後にそこで死んでいる。

黄巾の乱が起きて袁閎のいる町も襲われた時、彼はお経を唱えて逃げなかった。

袁閎は、第二次・党錮の大獄の大赦令が出てからも、隠し部屋に居続けていた。

黄巾賊は袁閎に会うと「あなたのいる村は侵さない」と言ったので、人々は袁閎の所に避難してきた。

黄巾の者たちは、袁閎が自分たちと同じく誦経することや、ただならぬ逸民的風格なのを見て、侵すことをはばかったのだろう。

なお三国志に登場する袁紹と袁術は、袁閎の従弟にあたる。

余談になるが、大学者の鄭玄(じょうげん)も、黄巾の乱の時に黄巾賊に敬意を表されている。

これを見ると、黄巾の民衆は逸民的な知識人に親近感や共感を持っていたようだ。

李膺や陳寔と親交のあった何顒(かぎょう)は、第二次・党錮の大獄で逮捕されそうになると、清流派の同志が多い汝南郡に逃げて潜伏した。

そして任侠色の強い袁紹や曹操と交流し、彼らの助けを得て党錮の大獄にあった知識人たちの逃亡に手を貸した。

何顒は潜伏生活を送りつつ、曹操の中に英雄を見て、王佐の才をもつ荀彧と結びつけた。
その行動を見ると革命家の気質だったのだろう。

(以上は2025年6月3&17日に作成)

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

霊帝は遊び好きで、官女に模擬店をつくらせて、自分は商人の服装をしてその店を飲み回った。

霊帝は商人になりたかったようで、位階や官職を売った。
彼は商売熱心で、掛売りを認めたといわれる。

(以上は2025年6月30日に作成)


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