紙の発明と改良、蔡倫の生涯、紙の外国への伝播(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋)
「前漢時代の紙が発見された」というニュースが1933年にあった。
それまでは紙の発明は、後漢時代とされていた。
この紙は、新疆のロプ・ノール(さまよえる湖)の近くで出土され、同じ所から出土した木簡に紀元前49年と記されていた。
紙は4cm×10cmと小さく、発見者は学者の黄文弼(こうぶんひつ)だった。
このロプ・ノールの発掘は、元々はスウェーデン人のスウェン・ヘディンが企画したものである。
ヘディンは1927年1月1日に、北京政府から旅行と発掘の許可を得たのだが、当時の北京政府は張作霖がトップだった。
当時、スタインやペリオという外国人が敦煌に行って、入手した文物を持ち帰ったことに、中国人たちは憤慨していた。
だからヘディンの探検・発掘の計画に対し、反対運動が起きた。
この結果、ヘディンの探検隊は北京政府の監督下で行動すること、中国人も旅行に参加すること、出土品は中国に残すことが決まった。
そして発掘に参加した黄文弼が、前漢時代の紙を見つけたのである。
黄の書いた『ロプ・ノール考古記』によると、見つかった紙は低質できめが粗く、麻の筋が見えたという。
この時点の紙質は、まだ使いにくいものだった。
1957年に、長安の近くにある灞橋(はきょう)で、前漢初期の墓が見つかった。
そこから紙が数片、出土した。
これは上述のロプ・ノール紙よりも少し古く、中国最古の紙の発見であった。
この紙を1965年に化学検査したところ、大麻と少量の苧麻(ちょま)が含まれていた。
大麻も苧麻も中国では古くから用いられ、『詩経』には「紵(苧麻)を浸すべし」とある。
水に浸して繊維を分散させる作業は、古代の水辺における日常風景だった。
古代中国で綿といえば、くず繭(まゆ)を引き伸ばして作った綿だった。
その質の落ちるものを「絮」(じょ)と言い、絮を水で撃って白くすることを「漂」と言った。
劉邦の将軍として有名な韓信(前196年に死去)は、若い頃に困窮し、腹を減らして淮水で毎日釣りをしていた時期があった。
この時、見かねた漂母の1人が、数十日にわたり彼に飯を食わせた。
漂母とは水辺で絮を撃つ年かさの女性のことで、下層の勤労女性だが、その1人に韓信は憐れみをかけられたのだ。
韓信は後に楚王となった時、その女性を見つけ出して千金を与えている。
『史記』は、韓信が腹ぺこで釣りをするくだりで、「諸母が漂す」と書いている。
つまり作業する女性は1人ではなく、並んで世間話でもしながら絮を撃っていたのだろう。
『説文解字』は、西暦100年に完成したとされる、最古の漢字の解説書である。
この本は、文字の字義と字形を解説しているのだが、
「紙」の項があり、「絮一苫(※正しくは竹かんむりに沾)也」(ふる綿を一苫するもの)とある。
同書の「苫(※正しくは竹かんむりに沾)」を見ると、「ふる綿をさらす簟(すのこ)」とある。
漂母たちが低質のまゆを水で撃つ時、すのこの上に糊状の繊維が残ることがあり、それを乾かすと薄片となった。
それを紙と当時は言ったのだ。
これはもちろん現代の紙とは違い、「紙以前の紙」と言えるが、こうしたものから着想を得て私たちの使う紙は生まれたのだ。
後漢時代の西暦105年に、蔡倫がつくった紙が和帝に献上された。
『後漢書』の蔡倫伝に、こう書いてある。
「昔から文字は、竹簡や、紙と言われた縑帛(けんはく、細かく織った絹)に書かれた。
だが竹簡は重いし、縑帛は貴重であった。
そこで蔡倫は、樹皮、麻、敝布(ぼろ)、魚網を用いて紙をつくった。
これを皆が用いるようになり、蔡候紙と呼ばれた。」
蔡倫は宦官で、114年に竜亭侯に封ぜられている。
蔡倫がなぜ去勢して宦官になったのか、いきさつは分からない。
彼は桂陽の出身で、和帝が10歳で即位(西暦88年)すると中常侍に昇進し、次いで尚方令に任命された。
尚方令は皇帝の使うものを製作する役職で、宮廷工房長のような職だったらしい。俸禄は六百石とかなり高い。
彼はこのポストに就くと、紙の試作をくり返した。
蔡倫は高品質な紙の発明という偉大な仕事をしたが、歴史を見るとめざましい仕事は発憤することで成し遂げられている。
周の文王は捕われて『周易』を著し、孔子は漂泊し困窮して『春秋』を著した。
屈原は追放されて『離騒』を創作し、左丘明は失明して『国語』を著した。
孫子は脚を切られて『兵法書』を編み、呂不韋は蜀に追放されて『呂氏春秋』が伝わり、韓非は秦に捕われて『説難・孤憤』を著した。
こう考えると蔡倫は(司馬遷もだが)宦官となって肉体の欠落感に苦しみ、それをバネに発憤したと推察できる。
蔡倫は、最後は自殺したが、その経緯はこうである。
彼が仕えた和帝(劉肇)には、1歳年上の異母兄・劉慶がいた。
劉慶は父・章帝から皇太子に指名されたのだが、母親である宋貴人が厭勝(まじない)の術(呪詛)をしたとして自殺に追い込まれ、彼も皇太子から降ろされた。
これは章帝の正妻(皇后)となった竇氏の陰謀だったにちがいない。
竇皇后は子が生まれず、劉肇(のちの和帝)を引きとって育てていた。
劉肇を皇太子にするため、宋貴人をおとしいれたのだ。
蔡倫は宋貴人が呪詛で疑われた時、その取り調べをした。
そして有罪と報告した結果、宋貴人は自殺し、劉慶は皇太子でなくなり、新たに劉肇が皇太子に立てられた。
劉肇が皇帝に即位すると、蔡倫は中常侍に昇進し、和帝(劉肇)の政策に参与する立場となった。しばしば和帝に直言したという。
和帝は10歳で即位したが、皇太后に昇格した竇氏が政治の実権を握った。
そして彼女の一族が政府の要職を独占した。
和帝はやがて自分が傀儡なことに不満を持ち、14歳の時に竇太后たちを排除するクーデターを起こした。
和帝は戒厳令を発して、竇太后の一族を逮捕し、死を命じてほとんどを自殺させた。
和帝がクーデターを起こすにあたり参考書にしたのが、『漢書』の外戚伝である。
和帝はこれの入手を異母兄の劉慶に依頼し、劉慶は入手して届けた。
このクーデターは92年の出来事で、約10年前に『漢書』は完成していたが、まだ紙は完成していないから、おそらく木簡に書かれていたはずだ。
なお、このクーデターの指導者は『後漢書』によれば宦官の鄭衆で、鄭衆はクーデターが成功すると宦官の最高位に昇進した。
クーデターの5年後に竇太后は死んだが、その後に和帝は初めて自分が竇太后の子ではないと知った、という説がある。
和帝の実母の梁氏は、竇太后に殺されていた。
102年に和帝は、陰皇后を廃して、鄧氏を皇后にした。
陰皇后は呪詛したから廃されたというが、これは廃立の常套手段であった。
鄧氏は皇后になる時、自らへの献上物について、紙と墨以外は禁じた。
彼女は読書好きで学問好きだった。
彼女が皇后に立てられたのは、蔡倫が自作の紙を和帝に献上する3年前である。
これを見ても、蔡倫は紙を発明したのではなく、改良した人と分かる。
和帝は27歳で106年に亡くなり、その息子で生後百余日の赤ん坊が後を継いだが、翌年に死んでしまった。
仕方なく和帝の異母兄・劉慶の子である、13歳の劉祐が皇帝となった。
これが安帝で、即位の4ヵ月後に父・劉慶は死んでいる。
安帝は、和帝の正妻だった鄧氏が皇太后として後見している間は大人しくしていたが、鄧太后が41歳で死去すると自ら政治を行った。
安帝が親政でまず手がけたのは、蔡倫を殺すことだった。
彼は、祖母である宋貴人の死は冤罪だと考えており、かつて宋貴人を取り調べた蔡倫に出頭を命じた。
蔡倫は「廷尉のところに出頭せよ」と安帝に命じられたのだが、当時これは「自殺せよ」と同じ意味であった。
「廷尉のところに出頭せよ」との勅命を伝える使者は、毒薬を携えていくしきたりだったという。
こうして蔡倫は121年に亡くなった。
ことあと安帝の親政では、江京、李閏といった二流の宦官が寵用され、乳母の王聖やその娘の伯栄が賄賂の窓口となり、朝政は大いに乱れた。
蔡倫の死後、左伯のつくる「左伯紙」が流行した。
左伯は蔡倫の弟子で、紙をさらに改良したらしい。
紙の改良により、この頃から書家(書道の達人)が現われ、後漢末から三国時代にかけて書家が多く生まれた。
韋誕(179~253年)は書家で、墨や筆を作る人でもあり、彼のつくる墨は高く評価されていた。
彼は書道の要訣(秘訣)について、魏の明帝(曹叡)に対し「張芝の筆と、左伯の紙と、私の墨を用いることです」と述べている。
「洛陽の紙価を高からしむ」という故事・用語がある。
洛陽に住む左思(250?~308年)が、10年かけて『三都賦』(中国の詩)を完成させ、これが流行して人々が争って筆写した。
このため洛陽において紙の在庫がなくなり、値段が高騰した事をいう。
10年かけたとはいえ、『三都賦』は一万字ほど。
写すのにそれほど紙は要らないはずで、在庫がなくなるという事は、晋朝の時代になっても紙はまだ大量生産できなかったと分かる。
なお晋代の紙が、乾燥地帯の新疆や敦煌で発見されている。
1924年に新疆で、晋代に紙で書かれた『三国志』の呉志の一部が出土している。
余談になるが、もし『三国志』のうち「魏志・倭人伝」の古いものが出土したら、邪馬台国について多くの疑問が解決されるだろう。
今読める「魏志・倭人伝」のテキストは、紹興年間(1132~62年)の印刷本で、かなり後に写されたものであり、誤写などが指摘されているからだ。
実は保存という点では、紙や木簡よりも、その前に使われた亀甲や獣骨のほうが良い。
晋代の紙はほとんど出土しないが、文字の書かれた亀甲や獣骨は何万枚も紀元前千年以上前のものが出土している。
ここからは、紙が中国から世界各地にどのように伝播したかを書く。
イスラム諸国に紙の製法が伝わったのは、タラスの戦い(751年)の後というのが定説である。
この戦いは、中国の唐朝とイスラムのアッバース朝の軍隊が、タラス(現在のカザフスタン)で戦ったのだが、捕虜となった唐兵に紙すき職人がいて連行され、やがてサマルカンド(現在のウズベキスタン)で紙が作られるようになった。
それまでにもシルクロードを通って製紙法が伝わりそうなものだが、イスラム世界には別に文字を残せる手段があったから軽視されたのだろう。
なお、ウズベキスタンの学者であるアスカロフ氏やナジム氏は、製紙法はタラスの戦いよりも前にすでに伝わっていたと言っている。
中東(西アジア)には、古くから文字を残すには「粘土板」があった。
これは保存性にすぐれるが、重くて運びにくい。
古代エジプトでは前2500年頃に、「パピルス」という植物を使う方法も生まれた。
これは紙というより布片に近い。
アナトリアのペルガモン(現在のトルコ)の王となったエウメネス2世(在位は前197~前159年)は、大図書館を造るのを志し、字を書き残すものとしてパピルスに優るものを開発するよう命じた。
そして「羊皮紙」が生まれた。
これは羊、牛、鹿の皮を使うもので、皮を水洗して浸した後、石灰水に2週間つけて毛と表皮を取り、再び石灰水につけた後、干して仕上げる。
羊皮紙はパピルスに比べて書きやすく丈夫だが、皮が原材料なので高価だった。
インドでは古くから、「ターラという樹の葉」を、字を書き残すのに使った。
この葉に先のとがった筆で彫りつけ、そこに油を流し込んで黒くし字にする。
文字を書いた葉を、サンスクリット語で葉を意味する「パットラ」と言ったが、漢訳では「貝多羅(ばいたら)」となり、「貝葉」(ばいよう)とも書いた。
余談になるが、玄奘三蔵(三蔵法師、602~664年)が天竺(インド)へ行った時、彼は貝多羅に記された経文(仏典)を大量に中国に持ち帰った。
当時のインドは、まだ紙ではなく葉っぱに書いていたのである。
さらなる余談になるが、『古事記』によると日本に書物が初めて外国からもたらされたのは、応神天皇の時代に百済人の王仁(わに)が『論語』と『千字文』を持って来た時である。
『千字文』は、521年に亡くなった周興嗣が著した、漢字を学ぶ教科書である。
ところが応神天皇は、周興嗣より100年も前の人と考えられるので、どこかに誤りがある。
日本書紀の推古天皇18年(610年)3月の項に、日本における製紙の初出がある。
「高麗の王が、曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)という2人の僧を日本に送り貢物とした。
曇徴は五経(儒教の教え)を知るだけでなく、彩色(絵の具)と紙と墨を作り、水力を利用した臼も造った。」
おそらく日本では、それまでにも紙は作られていたが品質が悪く、曇徴の技術指導でまともな紙が作れるようになったのだろう。
ちなみに日本では紙を「カミ」と呼ぶが、それまで使っていた竹簡や木簡の「簡」(カヌ)の音が変化したのだろう。
平城京跡や長岡京跡の発掘では、膨大な数の木簡が出土している。
平城京や長岡京は8世紀の都だから、その時代になっても木簡は盛んに使われていたのである。
(以上は2025年11月30日~12月2日に作成)