タイトル水滸伝①

(以下は『新・水滸伝』吉川英治著からの抜粋
2026年3月11~14日に作成)

(※水滸伝は私が中学・高校時代に親しんだ長編小説である。
その思い出に捧げる意味と、ストーリーの組み立てを分析する意味で、話の抜粋をここに書く。

吉川英治氏の新・水滸伝は、水滸伝を吉川流にアレンジしたもの。
これも中学・高校時代に読んだが、原作と大きくは違わなかった記憶がある。

なお吉川氏の文章は、読点がとても多い。
それも一因だと思うが、難しい単語をけっこう使っているのに、テンポが良くて読みやすい。

その文章力はさすがである。)

🔵108の魔物が解き放たれる

宋の国(北宋)は、首都を開封・東京(とうけい)に置き、4代目の皇帝・仁宗に受け継がれていた。

ある日、宰相の趙哲と参議の文彦博が仁宗に奏上した。

「ここ数年、凶作で、さらに悪疫が流行し、東京も西京も病気と飢えで国民が大量に死んでいます。
検非違使の包待制は自分の俸給を投げ出してその救済にあたっていますが、この分では国民の半分は死ぬでしょう。」

驚いた仁宗は、「ゆゆしい事ではないか。さっそく諸寺院に命じて大祈禱をさせねばならん」と言った。

当時は日本でも、大事があると加持祈禱で解決しようとした。
これが当時の人智だった。

仁宗の命令で、禁軍(首都にいる近衛軍)の将軍である洪信は東京を立ち、江西の信州へ赴いた。
そこには龍虎山があり、道教の大本山があった。
この山にいる大道士の虚靖天師に祈禱を依頼しに来たのである。

依頼を受けた虚靖天師は、空を飛んで東京に行き、祈禱で疫病を止めた。

洪信は、自分の任務を終えると、道教の大本山をゆっくりと見学した。

そこには開かずの祠である、伏魔之殿があった。
洪信はそれを見ると、 無性に開けたくなった。

案内していた僧たちは、「ここに封じられた魔物は、開山してから代々の大道土たちが捕まえてはここに封じ込めたものです。みだりに開いてはなりません」と忠告した。

洪信はそれを迷信だと嗤い、無理に脅して開けさせた。

洪信たちが伏魔之殿に入ると石碑があり、「遇洪而開」と彫られていた。

「洪に遇って開く」という文字を見た洪信は怒り出し、付き人に石碑を倒させて、その台石となっていた石作りの亀も取り除かせた。

それだけでなく、その地面を堀らせた。

すると大穴が開き、地鳴りがして山が震えるほどだった。

洪信たちは外へ逃げ出したが、黒雲が空に昇り、無数の妖星と砕け散って八方へ飛んでゆくのが見えた。
108の魔が解き放たれたのである。

すっかり参ってしまった洪信は、東京に戻ると引退し、身を慎んで余生を送った。

彼が存命中は事件はなく、30余年がすぎていった。

🔵高俅が皇族に気に入られて出世する

時はすぎ皇帝が哲宗に代わった、寿隆5年のこと。

首都の開封・東京で高二郎が百叩きの刑となった。

高二郎は25~6歳の遊び人の若者で、多芸で、賭け蹴毬の名人であった。

この男は悪事を重ねた結果、百叩きの刑となったのだが、刑吏は叩く数を少なく減らして許そうとした。
それを見た禁軍(首都の近衛軍)の棒術師範をする王昇は、「お前たち、高二郎から賄賂をもらっているな?!」と叱った。

それで高はしっかり叩かれて、ふらふらになって東京から追放された。
この一件で高は王昇に恨みを持った。

高二郎は淮西の商市場である臨港に流れつき、そこの顔役の柳世権のところで3~4年ほどゴロついていた。
すると大赦令があって高も恩赦となり、東京へ帰れるようになった。

4年ぶりに東京に戻った高は、柳世権の紹介で薬問屋の董将士と親しくなった。

そして董の紹介で学者の小蘇と知り合い、小蘇の紹介で皇族の王晋卿と知り合った。

王晋卿は皇帝の婿で貴族だが、多芸な高を気に入って家臣にした。

高は蹴鞠の達人なので、高毬というあだ名で通っていた。

高はこれを機に、高毬から「高俅」に名を改めた。

やがて高俅は、蹴鞠の上手さから哲宗(皇帝)の弟である端王に気に入られた。

端王は高俅を蹴鞠の師として雇うことにし、家臣にするため王晋卿から譲り受けた。

高俅の幸運は続き、それから半年後に哲宗が亡くなると、皇太子がいなかったので紛糾したが、ついに端王が皇帝に就いた。
これが宋朝8代目の皇帝・徽宗である。

高俅は徽宗の寵臣となり、朝廷で出世していった。
幾年もたたないうちに高球は禁軍(近衛軍)の大将軍にまで出世した。

(※高俅の出世は、現代で言うとプロサッカー選手が権力者に取り入り気に入られて、その権力者が首相になると援助を受けて政界に進出し大臣になる、みたいなものか。)

徽宗は道教を国教とし、自分が教主となった。

彼は芸道に凝り、ぜいたくな暮らしをしたので、国民は重税に苦しんだ。

貧富の差がいよいよひどくなり、人々の怨嗟が四方に満ちた。

宋は衰え、やがて遼(※国名)を滅ぼした金(※国名)が宋に攻めてくるのだが、それは25年後のことである。

水滸伝は、『北宗水滸伝』とも言われるように、徽宗の治政下をえがいた物語である。

🔵王進が史進に出会い、武芸を教える

禁軍の大将軍となった高俅は、禁軍の師範をしている王進に目をつけた。

王進は、かつて高俅が百叩きの刑を受けた時に、打つ数を間違わないよう見届けた王昇の息子である。
高俅はその恨みから、王昇はすでに亡くなっていたので、王進を殺そうとした。

高俅は難癖をつけて部下の王進を処刑しようとしたが、周りの者に止められた。

一度は難を逃れた王進だが、このままではいつか殺されると考え、老母と共に逃げることにした。

王進は、友人である老种を頼ることにし、老种の住む延州・延安に向かった。

この旅の途中、華陰県の史家村を通った時、村長の家を頼って1泊した。
ところが老母が病発したため、村長の好意でしばらく泊めてもらうことになった。

この家には、まだ18~19歳だが筋骨隆々の美丈夫がいて、武芸が好きで棒の稽古を一人でしていた。

この若者は九つの龍の刺青をしており、名を史進といった。

ある日、史進の稽古を微笑みながら見ている王進に対し、王進が何者か知らない史進はバカにされたと勘違いして、怒ってケンカを売り始めた。

かけつけた村長は謝り、息子の史進がどうしようもない暴れ者だと話した。
そして王進が武芸の達人だと気付いていたので、「せっかくですから、1つ息子に教えてあげてくれませんか」と頼んだ。

史進は相手を見くびり王進に襲いかかったが、簡単に投げ飛ばされた。

これを見た村長は、「よかったら史進の師となって指導し、村に永住してくれませんか」と王進に頼んだ。

王進は自分はお尋ね者だと告白したが、史進父子は気にせず村に住むことを求めたので、王進は引き受けた。

九紋龍のあだ名を持つ史進は、少年の頃に、家の食客になっていた打虎将・李忠という浪人者から棒術を習った。
それ以来、棒術にやみつきになり、村に来た武芸者と片っぱしから試合したが負けたことはなかった。

それが王進には手も足も出なかったので、すっかり心服した。

王進は、武芸十八般の技を史進に教える日々となり、気付けば1年余りがすぎていた。

史進に技を伝授し終えた王進は、史進が武芸に夢中になり百姓仕事を嫌ってはかえって良くない、史家のためにならないと考えた。

それで暇乞いして、母と共に当初の目的地であった延安へ向かった。

残された史進は寂しさから酒におぼれたが、その年の秋に父が突然に病死してしまった。

史進は家を継いだが、家事をかえりみず、無頼漢を集めてケンカに明け暮れる日々となってしまった。

🔵暴れん坊の史進は山賊と付き合い、お尋ね者に

史進の住む華陰県には、少華山という一峰があり、そこには山賊が住んでいた。

その山賊は600~700人もいて、首領は神機軍師・朱武、白花蛇・楊春、跳澗虎(ちょうかんこ)・陳達の3人であった。

ある日、陳達は兎捕りの猟師である李吉から、「史家村の名主である史進はえらく強いが、お坊ちゃん育ちなので負けてやりさえすれば食客として幾日でも泊めて酒も飲ませてくれる」 と聞いた。

陳達はこの話を聞くと、坊ちゃん育ちの野郎ならコケ脅しだろう、実はそんなに強くないに違いないと考え、倒しに行くことにした。

陳達は長槍の名人で、首領3人の中で一番年上だった。

なお、朱武は両刀を使うが、得意なのは兵法と謀略。
楊春は大薙刀の達人で、腰は細く手足は長くて蛇の感じがする、白面青気の男である。

手下を率いて史家村を襲った陳達だが、史進にあっさり一騎打ちで敗れて手捕りにされた。

これを知った朱武と楊春は、降伏することにした。

2人は史進に会うと、同情を買う目的で涙ながらにこう話した。

「我ら3人の首には3千貫の賞金がついてます。我々を役所に渡してその賞金を窮民たちに与えて下さい。
我ら3人は義兄弟の誓いをしてますが、あなたには敵わないので諦めました。」

史進は義侠心があると感心し、寛大なところを周りの従者たちに見せたい下心もあって、3人を許すことにし、酒を飲ませて少華山に返した。

それ以降、朱武たちは史進に心服し、つけ届けをするようになった。

これに対し史進も返礼品を少華山に送るようになり、奉公人の王四に持たせて少華山へ行かせるようになった。

ある日のこと、王四はまた贈り物を持って少華山へ使いに行ったが、喜んで出迎えた山賊たちから酒をごちそうになって酔い、帰路に道ばたで寝てしまった。

そこを通りかかった悪賢い李吉は、寝ている王四の懐を探った。
すると史進と朱武らのやり取りの手紙があった。
李吉は役所へ駆け込んで報告した。

その翌日。
仲秋節の祝日なので、史進は家に朱武たちを招いて宴会を開いた。

そこに県城から捕手が押し寄せてきた。

朱武たちは、「山賊渡世の我らがお付き合いを願ったばかりに、あなたにご迷惑をかけました。年貢の納め時でしょう。我々を縛って役人に突き出しておくんなさい。」と史進に言った。

「バカを言え、そんな事をしたら史進の男がすたる。俺にそんな真似をしろと言うのは、俺に乞食をしろと言うのも同じだ。ともかく逃げてお前たちの山塞へ落ちのびようぜ。」

こうして史進はお尋ね者となった。

一ヵ月後、少華山に隠れていた史進は、「このまま山賊でいても仕方ない。王進先生 を訪ねて延安府へ行ってみよう」と決心した。

そして朱武ら3人に「ここへ俺と一緒に避難した奉公人や若者は、時をみて正業に返してやってくれ。俺の家から持ってきたカネはその折に皆で分けるがいい。俺は王進先生を訪ねて旅に出る」と告げた。

🔵魯達は殺人を犯してしまう

史進は20日余り旅をして、渭州(いしゅう)という一市街まで来た。

そこの茶店に入ると、軍装の大男と知り合った。
この大男は渭州の提轄(憲兵)をしており、名を魯達といった。

史進が「王進師範を探している」と話すと、
魯達は「この渭州の守備は延安府の経略使である种閣下のご子息が当たっている。王師範は种閣下を訪ねていき延安におられるそうだよ。」と教えた。

仲良くなった史進と魯達が茶店を出て町中を歩いていると、30がらみの香具師が口上を述べたてていた。
それは打虎将・李忠であった。

史進はかつて棒術を教えてくれた師匠・李忠に声をかけ、3人は酒を飲むため酒楼に入った。

3人は飲み始めたが、となりの部屋でシクシクと泣いている若い女がいる。

その声に興醒めした魯達はかんしゃくを起こし、片足で床をどんと踏み鳴らして怒鳴った。
「やい、こらっ、給仕人。酒が醒めてしまうわ。なんだいあのベソベソ声は。」

「歌手の父子なんですが、すぐに追っ払います。」

「待て待て、追っ払ってそれで酒が美味くなるもんか。ここへ連れてこい。」

連れてこられた父と娘は流しの芸人で、父は四ッ竹を持ち、娘は胡弓を抱えている。

魯達が泣く理由を訊ねると、娘は話した。

「私たちは開封・東京にいたのですが、重税に苦しみ渭州へ流れて来ました。

母が病死してしまい、生活にも困窮して、さるお方の世話になったのですが、これが大間違いでした。

その男は、私に妾になれと脅迫じみた話を持ちかけてきました。
ぜひもなく身を任せたところ、男は俺の家に入れる代わりに三千貫の証文を書けと言いました。

男の家に入って暮らしてみると、本妻がいて私たちは3ヵ月もせずに追い出されました。

その後、男が空証文をたてにとって金を返せと迫ってきました。

もう死ぬしかないのかと、ついつい泣いていたのです。」

涙もろい魯達は、瞼をぱちぱちさせながら娘の話を聞いていた。

娘は金翠蓮(きんすいれん)という名で、19歳。
彼女をだました男は肉屋の大旦那であった。

魯達は「父娘を助けようじゃないか」と史進と李忠に話し、「吾輩が5両出すから、貴公たちも出してくれまいか。それを路銀にして父娘を故郷へ帰してやりたい。」と持ちかけた。

史進は10両出したが、膏薬売りで貧乏な李忠は2両しか出さなかった。

魯達は「何だ、2両ばかしとは」と文句を言って李忠にそれを返し、「まあいいや、15両あれば路銀にして国に帰れよう。」と言ってそれを金翠蓮に渡した。

翌朝、魯達は父娘の泊まる宿へ様子を見にいった。

すると宿屋の亭主が出てきて、彼に食ってかかった。

「金翠蓮は借りた金の証文がある。俺はその取り立てを鄭の旦那から依頼されてる。お前が代わりに三千貫を払うのかい。」

怒った魯達は亭主を蹴り倒し、金翠蓮とその父に「早く旅へ出ろ」と言って送り出した。

そのまま魯達は、金翠蓮を騙した肉屋の大旦那・鄭の店に向かった。

そして怒りをぶつけて鄭を殴り倒したが、剛力なので勢いあまって殺してしまった。

殺人を犯した魯達は、下宿へ帰ると持ち物とカネを持って、逃亡の旅に出た。

鄭の遺族や子分が訴え出たので、魯達は殺人犯として各地に人相書が配布された。

🔵魯達は僧になり魯智深と名乗るが、悪事を重ねて寺から追放される

魯達がさすらうこと数カ月。彼は代州の雁門県(現在の山西省北部)に現れた。

ここにある雁門関は、北に住む異民族の侵略に備えて城壁がめぐらされている。

この街で魯達は、金翠蓮に再会した。
彼女は今度は真面目の男の妾になり、今では贅沢な暮らしをしていた。

金翠蓮の旦那は趙という50年配の人で、金翠蓮の恩人である魯達を歓待した。

趙は指名手配中の魯達に、寺に入るよう勧めた。
寺は法の及ばない場所だったからである。

趙は、五台山という名山にある文殊院という大寺を勧めて、そこには智真という名僧の長老もいると説明した。

魯達は決心し、文殊院に入った。
智真はその際、「この男は今は粗暴乱行だが、ゆくゆくは悟りに会って非凡の往生をする」と予言した。

魯達は、智深という法名(僧名)をもらった。

だが魯智深は、入山したのに修行もせず、だらだらと日々をすごした。

そして早くも4~5ヵ月がすぎ、晩秋の時期となった。

なんとなく里恋しくなって下山した彼は、酒を売る男を見つけると買い、大酒を飲んですっかり酔っぱらってから寺に戻った。

寺の僧たちは戒律を破ったとして門の中に入れず、入ろうとする彼を門前から石段へ突き落とした。

激昂した魯智深は僧たちを片っぱしから投げ飛ばし、蔵殿の一室へ入ると大の字になって寝てしまった。

翌日、智真上人に叱られた魯智深は、「もうしません」と誓った。

翌年の春、再び煩悩に襲われた魯智深は、ある日カネをふところに入れてまた下山した。

彼は酒を買う前に、鍛冶屋に行き、62斤という非常な重さの錫杖を注文した。

酒屋に入った彼は、大酒を飲み、犬肉も食べた。(※当時は犬肉も食されていた)

泥酔して寺に戻った彼は、酔った勢いで仁王門や仁王像を破壊して小便をかけ、僧や民間人を10数名も殺傷した。

これにはさすがの智真も庇いきれず、追放を命じた。

涙を流して「これからどうやって生きたらいいんですか」ときく魯智深に対し、
智真は「私の弟弟子が開封・東京にある大相国寺にいて、智清という僧名だ。この添書(てんしょ)を持ってそこへ頼りなさい。」と言った。

魯智深は下山すると、旅人宿に泊まって注文した錫杖ができあがるのを待った。
半月後に完成すると、それを受け取って開封・東京へと出立した。

🔵魯智深は史進と悪僧を倒す

開封への旅の途中、魯智深は青州の山中の村で、困窮している劉という老人に出会った。

この老人の娘は、匪賊の首領の弟分だという周通に目を付けられ、自分の嫁にすると言われた。
それに逆らえば村を焼き払うと周通は言うが、助けてくれる者もない。

これを聞いた魯智深は助けることにし、花嫁に化けて待ち、現れた周通を捕まえようとした。

逃げた周通を追ったところ、なんと周通の一味の首領は旧知の打虎将・李忠だった。

李忠が言うには、魯智深が渭州の街で暴れた(肉屋の鄭を殴り殺した)後、役人が無頼の者を片っぱしから捕まえ始めた。だから自分はこっちに逃げてきて、史進もどこかへ姿を消したという。

魯智深は「素人を脅して生娘漁りなんてケチな悪事はやめろ」と忠告し、もう二度としないと李忠と周通に誓わせた。

魯智深は開封・東京を目指す旅に戻った。

旅の途中、魯智深は瓦罐寺(がかんじ)という荒れ放題の寺に一夜の宿を求めた。

見るとここの僧たちは骨と皮ばかりの姿で、事情を聞くと崔道成と丘小一という2人の悪僧に寺を奪われて食べ物もないとのこと。

そこに崔道成と丘小一が1人の若い女を連れて現われ、豪華な食事をとり始めた。

魯智深は2人と戦ったが、2人はかなりの手練れで、分が悪いため魯智深は逃げ出した。

魯智深が逃げていると、行者姿の史進と思わず再会した。

史進は渭水(渭州)を去った後、延安や北京をさまよって王進先生を探したが会えず、今は近くの廃寺に住んでいると言う。

史進は瓦罐寺にいる悪僧2人を知っていて、「俺1人だったら難しいが、今はこっちも2人だから倒せる。一緒に倒そう」と持ちかけた。

寺に行った史進と魯智深は、崔道成と丘小一と戦い殺した。

見ると僧たちと若い女は、皆が首をつって死んでいた。
魯智深が負けて逃げた時に、残された自分たちがどんな目にあうかと絶望して死んでしまったらしかった。

2人は誰もいなくなった名刹の瓦罐寺に火をかけて焼き、魯智深は東京を目指して、史進は朱武らのいる少華山を目指して去った。

(※水滸伝は、道教の影響が強い作品で、創作された時代の価値観も影響しているのだろうが、仏教をバカにしたところがある。

この部分は全く共感できない。)


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