タイトル水滸伝②
林冲、楊志など

(以下は『新・水滸伝』吉川英治著からの抜粋
2026年3月14~17日に作成)

🔵禁軍の師範・林冲は罠にはめられ流刑になる

首都の開封・東京にある大相国寺を目指して旅してきた魯智深は、ようやく着いた。

大相国寺を頼った魯智深だが、ここの僧たちは人殺しをした暴れ者の彼を嫌い、少し離れた場所にある野菜畑の管理人になるよう命じた。

近所に住むゴロツキの青草蛇(あおだいしょう)・李四と迂路鼠・張三は、魯智深が管理人となった野菜園にしょっちゅう盗みに入っていた。

彼らは新任の管理人を脅かすため、20~30人の手下を連れて現れた。

だが魯智深は剛腕の大男で、花の刺青があることから「花和尚」のあだ名がある男。

えらく強いのを見て、李四と張三は子分のようになってしまった。

ある日、魯智深が自慢の錫杖を振り回して腕前を李四らに見せていたところ、通りかかった禁軍(首都・開封の近衛軍)の武術師範である林冲は、思わず「見事だ!」と声をあげた。

林冲は豹子頭というあだ名で、豹のような狭い額、琥珀色のひとみ、あごの鋭い人だ。34~35歳の長身で、見るからに武人のよそおいである。

見ている林冲に気付いた魯智深が挨拶し、誘って酒を飲みながら話し始めたところ、気が合ってたちどころに仲良くなった。

そのまま魯智深が兄、林冲が弟で義兄弟の盃をかわした。

2人が酒を飲んでいると、林家の小間使いの錦児が現われ、「奥さまが大変です」と告げた。
それで林冲は急いで現場に向かった。

林冲は結婚したばかりで、新妻がいたが、その妻が若者10人ばかりにからまれていた。

その若者の首領は、宋朝の大将軍・高俅の養子で、養父の権力をかさにきて悪さばかりをするので開封・東京の嫌われ者であった。

林冲が現れると、彼は軍の師範で腕が立つので、高俅の養子たちは逃げ去った。

それからというもの、林家は妻が襲われかけるなど、何度か危ない事件が続いた。

秋に入ったある日に林冲は、道ばたで稀な名刀を売っている浪人と出会った。
護身の意味も込めて、彼はその刀を買った。

その3日後、殿帥府(高俅の役所)の副官である陸謙から手紙が来た。
「お前が名刀を手に入れたと聞いた。高閣下はその刀を鑑賞したいとおっしゃっている。明日、使者を出すから来い。」との内容であった。

翌日、林冲は正装して刀をたずさえ、迎えの者と共に高俅の役所へと向かった。

案内されるままに奥に進むと、白虎節堂に入った。

節堂は軍の機密を議するところなので、ぎょっとして立ち去ろうとしたが、そこに高俅将軍が現われて「出あえ、曲者だぞ。私はお前など召し出してない。こいつを捕まえろ。」と叫んだ。

林冲は兵士に囲まれて捕まり、獄に入れられた。

林冲の取り調べを担当したのは孫定で、慈悲心のある良吏として知られていた。

孫定はすぐにこの事件はでっち上げだと感づいた。

林冲は「私は高俅の養子にはめられた」と裁判で主張し、裁判官もそれを事実と認めたが、権力者の高家が恐くて無罪にできなかった。

孫定が「死罪ではあんまりだし、流刑でどうしょうか」と助言し、それに決まった。

材冲は罪人の証として顔の額に刺青を入れられ、首に枷をはめられた状態で流刑先の滄州(現在の河北省にある)に連行されることとなった。

🔵林冲は刺客を撃退するが、殺人者としてお尋ね者に

林冲は流刑地に出発する時、見送りに来た妻に「お前は身を隠せ。そして良縁があったら私のことは忘れてそこへ嫁ぎなさい。」と言って、離縁状を渡した。

妻は「私をそんな女と思っていらっしゃるんですか。離縁は嫌です」と慟哭した。

董超と薛覇(せつぱ)という刑吏に、林冲は流刑地まで引かれて行った(連行された)。

この2人の刑吏は出発前に、陸謙(高俅の副官)にカネで買収され、道中で林冲を殺すと密約していた。

2人は林冲を殺す機会をうかがったが、殺そうとした正にその時、心配して後を尾けていた魯智深が止めに入った。

魯智深は林冲に「逃げたいか」と尋ねたが、林冲は「私が逃げたら妻や家族に大難がある」と言って流刑地に行く覚悟だった。

それで魯智深は、そこからは一緒に流刑地に向かった。
魯智深を恐れて刑吏2人は下僕のような形で付き従った。

滄州(流刑先)の近くまで来ると、魯智深は銀子20両を林冲に渡し、開封・東京に戻っていった。

滄州は、小旋風・柴進という名家の旦那が侠客として活動しており、何十人も食客を抱えていた。

柴進は34~35歳の美丈夫だが、囚人として当地に来た林冲を見るなり、ただ者ではないと見抜き、自邸に招いて酒宴を開いた。

柴進は護送役の董超と薛覇に賄賂を渡して、林冲の首枷を外させた。

客人となった林冲の武技を見た柴進はすっかり感心して、滄州の役人たちに宛てた添書と賄賂用のカネを林冲に持たせた。

これにより林冲は、入獄のさいに行われる棒で百叩きの洗礼を免れた。

他にも、裸にされて四つん這いにされ肛門に金棒を入れられるといった侮辱の儀式も免除された。

さらに苦役も免除され、閻魔大王を祠るお堂の番人役という、楽な仕事をすることになった。

柴進の差し入れ(賄賂)の効果で、林冲はたまに街へ出かけるのも許された。

ある日、林冲が街へ行くと、彼が開封・東京にいた時に近所に住んでいた、李小二とばったり会った。

聞くと李小二は、滄州に引っ越して小さい飲み屋をやっていると言う。

その年が終わり、翌年になったある日のこと。

李小二が顔色を変えて林冲のところに来た。

そして「陸謙と富安が高俅の命令を受けて、あなたを殺しに滄州に現れた」と告げた。

それから少しすると、林冲は職場替えを命じられた。

新しい職場は人気のない所で、夜もそこに宿泊する。

林冲が夜に一人で寝ていると、陸謙と富安たちが襲ってきた。

上手くかわして陸謙ら4人を殺した林冲は、そのまま逃亡した。

🔵林冲は梁山泊に入る、楊志の登場

逃亡した林冲は、すぐに逃げ場に窮して村人たちに捕まったが、これを知った柴進は林冲を引き取って匿った。

柴進は林冲に説いた。

「ここにいるのもまずいから、山東の梁山泊へ落ちのびて下さい。

梁山泊は山東の江に臨んだ水郷で、そこの砦に700~800人の日陰者の巣があります。頭領は王倫で、その下に副頭領の宋万と杜選がいます。

その3人は私がよく知っている間柄ですから、紹介状を書きましょう。」

林冲は20日間ほど旅して梁山泊に着いた。

梁山泊の賊徒たちは、宋の政府に対抗して、義の盗賊を自称し、旅人などを悩ましていた。
要害になっていて、巨大な無法地帯であった。

梁山泊の入口となる渡船場では、茶店の主人として梁山泊の幹部である朱貴が働いていた。

林冲はその茶店に入ると、柴進からの紹介状を見せた。

梁山泊の首領の王倫は、元は学問を志して進士の試験勉強した人。
だが政府の腐敗に失望し、試験にも落ちて、無頼の生活を始め、梁山泊に来て首領にまつり上げられていた。

林冲は王倫に会うと、柴進の紹介状を渡した。

ところが王倫は、「食料不足なので他を当たってくれ」と断わった。

驚いた宋万と杜選が説得した結果、
王倫は「仲間に入れてもいいが、まず私の命令を3日以内にこなすのだ。3日以内に役人なりしかるべき者の首を1つ持ってこい」と林冲に言った。

林冲は王倫の態度を見て狭量な奴と軽蔑したが、他に行く所もないと諦め、首を取るために街道で狙った。

そこ現れたのが、顔に大きな青痣のある30がらみの武士である。

林冲がこの武士に身分を問うと、「俺は皇帝・徽宗の旗本に列していた、貴族の末裔だ」と答えた。

この男なら不足はないと林冲は首を取ろうと襲ったが、相手は強くて互角だった。

2人が戦っていると止める声があり、それは白衣秀士・王倫らで、彼らは様子を見ていたのであった。

王倫は酒宴を開いて、2人の仲直りを図った。

王倫は、林冲を見た時すぐに大人物と見て、梁山泊に加えると自分の地位が危うくなると感じた。

そこで「もう1名互角の者を加えれば、牽制し合って御しやくなる」と胸算用し、この青痣の男、青面獣・楊志を仲間にしようと誘った。

だが楊志は、「開封・東京には屋敷があり、一族も暮らしているので。いま東京に戻る途中なのです」と断った。

楊志は酒宴のなかで、自らの身の上を話した。

「私は高俅閣下の直属の親衛軍で将校をしていました。

ところが昨年に皇帝・徽宗が離宮に庭園を造ると言い出し、私は西湖に派遣されて名石や花木を調達する役を命じられました。

調達した名石などを船に積んで戻る途中に、暴風で船が沈み、面目なさで田舎に隠れていましたが、このたび赦免の令が出たので、開封に戻るところです。」

話をきいた林冲は、罪人の証である自らの額の刺青を指しつつ、こう説いた。

「あなたの身の上を聞けば、私の元同僚といっていいでしょう。

私の例を見て下さい。
高俅は佞奸な人物ですし、徽宗皇帝ら朝廷の者たちも腐敗し堕落しています。

あなたが東京に戻っても、長く安穏には暮らせないでしょう。それよりもここで我らと生きませんか。」

楊志は「心惹かれるものもあるが、一族が開封に居ますし」と、やはり断った。

🔵楊志は開封・東京に戻るが復職できず、街のチンピラを殺してしまう

楊志は梁山泊を離れて、無事に開封・東京に帰還した。

ところが復職のために殿帥府に赴くと、高俅は「どの面下げてここへ来たか。お前は皇帝の御命令を受けていたのに、船を難破させたのみか、そのまま行方をくらませて自首せずに隠れていた。」と責め立てた。

「不届き者め!赦免の令はお前に出したのではない。復職は許さん、とっとと帰れ。」と楊志は追い出された。

楊志は復職の運動で賄賂をいろんな役人に渡していたから、カネが無くなっており、食うに困る状態となった。

それで家宝の名刀を売ることにし、街の辻に立って道行く人々に呼びかけた。

すると酒に酔った大男が絡んできた。
この男は無毛虎・牛ニという者で、街のチンピラだった。

牛二は刀に三千貫の高値がついているのを見て、「三千貫の宝刀なら何が斬れるんだ?」と訊ねた。

「驚くな。銅や鉄を斬っても刃こぼれ1つしない刀だ。髪の毛を吹きかければ毛も斬れるから、吹毛ノ剣という。」

「それでも生きた人間を斬れねえんじゃ、何にもなるめえ。」

「人を斬っても刃に血の痕をとどめぬ。どうだ、もう十分だろう。」

「面白え。そんなら、これを斬ってみろ」
牛二はひと掴みの銅貨を塔みたいに積み重ねた。

「この銭を斬ってみろ。そしたら三千貫くれてやるが、斬れなかったらただじゃおかねえぞ。」

楊志が見事に銭を斬り分けると、見物人は喝采を送った。

しつこい牛二は、自分の髪の毛を一掴みむしり抜くと、「これを斬ってみろ」と挑発した。

楊志はそれを受け取ると、「よく見るがいい」と言って刃に向って静かに吹きかけた。
毛は見事に2つに斬れて落ちた。

牛二はさらに、「人を斬っても刃に血の痕を残さねえという証拠を見せろ」と迫った。

「見せてやるから犬を曳いてこい。人は斬れぬ。」

「そう言うだろうと思ったぜ。騙り者の逃げ口上は決まってら。出来ねえなら見物人に 謝れ。」

楊志は「まあ、このくらいで勘弁せい」と言って話を打ち切ろうとしたが、牛二は止まらない。
楊志の手首をとって「この刀は俺が買う。お前は約束通りに生きた人間を斬って刀の値打ちを証明しろ。それとも四つん這いに手をついて謝るか?」と脅した。

ここに至って楊志も堪忍の緒を破った。牛二を一瞬で斬り倒した。

これには群衆も戦慄したが、楊志の言う通り、刀には血脂の曇りもとどめてなかった。

楊志は群衆に対し、「あなた方に迷惑はかけません。これから奉行所へ自首して出ます。」と宣言した。

大人しく出頭する楊志を見て群衆は感動し、口々に奉行所の門前で「牛二が悪かったんだ。牛二は普段から街の者たちを泣かせてきた」と証言した。

60日間の留置期間も助命運動が盛り上がった。

それで罪は軽くなり、「北京へ流罪とし、北京の大名府の軍卒にする」との判決が出た。持っていた宝刀は役所に没収となった。

楊志は罪人として額に刺青をほられ、棒で背を打たれた上で、北京に送られることとなった。

🔵楊志は北京府において梁中書に引き立てられる

北京(ほっけい)は当時、大名府とも言い、北方の女真国(金)や遼の侵攻に備えて、 留守司(北京軍の司令官)が常駐していた。

この時の留守司は梁中書で、この人は朝廷で太師(太政大臣)をしている蔡京の女婿であった。

(※新・水滸伝に付されている地図を見ると、北京は現在の首都・北京とは場所が違う。街名は同じだが別物らしい。)

梁中書は楊志が北京に護送されて来ると、楊志も名家の者なので旧知だったから、自邸に呼んで事情をきいた。

そして事情を理解すると、「君ほどの人物を一兵卒にはしておかんよ」と言って、取り立てる機会を探った。

2月になると、北京軍の大演習があり、将軍の天王・李成と大刀・聞達の号令の下で盛大に行われた。

この演習では、部将の周謹が一騎討ちの試合で勝ち続け、梁中書は「見事だった」と褒めた。

梁は「元は首都で近衛軍の将軍だった楊志が、一兵卒に落とされてここに来ておる。彼は武芸に秀でるので勝負してみよ。」と周謹に言った。

周謹は楊志と対戦したが、楊志には勝てなかった。

梁はそれを見て、「周謹の役職を楊志にゆずらせて、楊志を部将に取り立てる」と告げた。

これに怒ったのが周謹の武芸師匠である急先鋒・索超で、「この索超を負かしてから楊志を部将に任命していただきたい」と進み出た。

それで索超と楊志は一騎討ちしたが、互角で結着がつかなかった。

梁は引き分けと審判し、2人を褒めて、2人を提轄使(憲兵の長)に任命した。

5月になると梁中書は、妻の父親である蔡京(※宋の宮廷の最高権力者の1人)の誕生日(7月15日)に向けて、お祝いの品々(賄賂)を開封・東京に送る方法を思案しはじめた。

十万貫に値する財宝を送るので、去年は途中で群盗に襲われ奪われていた。

そこで梁は、部下の楊志に護送役を命じることにした。

🔵劉唐の持ち込んだ梁中書の賄賂を奪う話に晁蓋は乗り、同志を集める

山東にある済州・鄆城県(うんじょうけん)に、新しい県知事として時文彬が赴任してきた。彼は今どき珍しい良吏であった。

鄆城県は、梁山泊のあるところで、盗賊たちの巣窟になっていた。

そこで時文彬は赴任するとすぐに、県の捕手たちの頭である美髯公・朱同と挿翅虎・雷横に、村々の巡邏(じゅんら、巡回と同じ意味)を命じた。

朱同は見事な髯なので美髯公と呼ばれ、雷横は人並み外れた腕力と跳躍力から挿翅虎と呼ばれていた。

雷横が部下たちと夜に巡邏したところ、東渓村の古い廟に忍び込んで寝ている、まっ黒な肌で顔が赤痣だらけの男を見つけた。

雷横は男の人相を見て犯罪者だろうと判断し、捕まえて縄で縛った。

このあと雷横たちは、休憩するために東渓村の名主である晁蓋の屋敷に向った。

晁蓋は托塔天王というあだ名を持つ侠客で、面倒見が良くて雷横とも知り合いだった。

雷横は晁蓋に会うと、「すまんが部下たちに朝飯をとらせたいから屋敷のすみを貸してくれ」と頼んだ。

晁蓋は引き受けて酒食を出して歓待したが、雷横たちをもてなす間に捕まった男を見に行った。

その男は赤髪鬼・劉唐というヤクザ者で、 「この村に来た目的は有名な侠客の晁蓋に大儲けできる話を話すためだ」と言った。

晁蓋は興味を持ち、雷横たちに「この捕まった男は、私の甥っ子です。怪しい者ではありません」と虚偽の説明をした。

晁蓋はカネと物を雷横たちに渡して、不審者として捕まった劉唐を釈放してもらうことにした。

雷横たちが帰ると、劉唐は儲け話を晁蓋に話した。

「密貿易の仲間から聞きましたが、北京府の梁中書が十万貫もの財宝を東京へ密々に送るんです。(首都・東京の)朝廷で最高の地位にいる蔡京・大臣への誕生日祝いです。」

「なるほど、閥族同士の大贈賄だな」

「これは庶民からしぼり取った不義の財です。それをぶんどったら痛快でしょう。」

「話は素晴らしいが、よく考えようぜ。俺は思案してみるから、お主は客間で一杯やって休んでいなさるがよい。」

劉唐は客間に案内され飲み始めたが、どうも面白くない。

晁蓋の生返事が気にくわず、「俺のことをただの与太者と見て、疑ったに違いねえ」と腹が立ってきた。

そして「あの雷横って野郎の詫び証文か片腕でも取ってくれば、俺を見直すだろう」と考えた。

劉唐は晁蓋の屋敷の馬に乗ると、雷横の後を追った。

朝酒を晁蓋の所で振舞われて酔っている雷横たちは、のんびりブラブラ歩いて帰るところだった。

追いついた劉唐は、「昨夜はなんの咎もない人間に縄目をかけやがって。詫び状を書いて俺に渡せ」と息まいた。

「ふざけるな。晁蓋の甥というので慈悲をかけてみれば、いい気になりやがって。」

劉唐と雷横は決闘を始めたが、近くの家から走り出てきた者が「まあ待たれい」と言って、手に持っている分銅付きの細鎖で双方の間を分けへだてた。

「お2人とも刀をお引き下さい。私の家の前でこんな芸をやられては、ただ見物しとるわけにもいかんわい。」

この人は寺小屋の先生をしている智多星・呉用で、住民たちから呉用先生と呼ばれる学者。
白髪だがまだ若々しく、知識人の趣きがあった。済州では有名な学者であった。

劉唐と雷横は「退いて下さい、先生」と吠えたが、そこに晁蓋が駆けつけた。

晁蓋は「こののんべえめ。酒をくらってこんな事をするとは。」と言って、劉唐の肩を突いて刀を奪い、殴りかけた。

それを「まあまあ」と止めたのは呉用である。

「酒が入れば間違いもある。雷横どの、ここは晁蓋さんと私に免じて堪忍して下さらんか」と呉用が言ったので、雷横は部下と共に去っていった。

晁蓋から「先に屋敷に帰っていろ」と言われた劉唐も、ニヤニヤしながら帰っていった。

晁蓋は呉用と2人きりになると、「折入ってご相談があります。自分の思案に余ることが ありまして。」と告げた。
そして劉唐の持ちこんだ十万貫の財宝の件を話した。

呉用は黙考した後に、「晁蓋どの、おやんなさい。私も知恵を貸しましょう。」と言った。

暃蓋は、「私は代々の庄屋で食うに困る身ではありませんが、今の世を見渡してどうも腹から愉しめないことばかりです。今回の話を聞いて、欲と義憤の2つが湧きました。」と心情を吐露した。

呉用は言った。
「どうしても粒よりの男が7~8人は要りますな。あなたの所にいる若い衆じゃ何十人いても役には立ちません。」

「そうなると、先生と私と劉唐だけでは足りませんね。」

呉用はしばし考えた後、「そうだ、3人兄弟で義に厚く、武芸に秀いでて、事に当たったら水火も辞せぬ者がいる」と言った。

これが阮小二、阮小五、阮小七の3兄弟で、済州の梁山泊のほとりにある石碣村(せっかそん)に住んでおり、3人とも漁師で、密貿易もしていた。

呉用は2日かけて石碣村に向かった。

阮3兄弟に3年ぶりに会ってみると、3人共に博打好きで、負け続けで借金生活だと言う。呉用はこれは脈があるとほくそ笑んだ。

3兄弟は全員が荒くれ者だが、その中でも阮小五は短命二郎のあだ名があるほど殺気がただよい、胸もとには豹の刺青があり、鬢(びん)には一枝のざくろの花を挿していた。

3年ぶりに呉用に会えたことを3兄弟はよろこび、飲み屋に誘って飲んだが、やがて飲む場所は阮小二の自宅に移った。

3兄弟は、「近ごろは梁山泊が群盗の根城になっていて、そのせいで漁がしづらくなり、いっそう金欠になってます」と愚痴った。

「役所や役人がいるのに、取り締まらんのかね」

「それが先生、役人たちは頼りにならず、梁山泊のことを訴え出ても来てくれたためしがありません。むしろ役人たちは私腹を肥やして贅沢ざんまいです。腹が立ってたまりませんや。」

呉用が「いっそ梁山泊に行ってみたらどうだ?」ときくと、3兄弟は笑って手を振りながら「あそこの首領の白衣秀士・王倫は、気が小さくて侠気も義もありません。あんな野郎の下に付きたくありません」と話した。

呉用はこれなら行けると、「晁蓋という名主の大人物から頼まれて私は参ったのだ。」と言って、例の話を持ちかけた。

3兄弟は眼を輝かして、「晁蓋さんのご高名はうかがってます。あっし共を見込んで力を借りたいと言うのなら、一も二もありませんや。こう見えても裏切るような下衆ではありません。」と誓った。

こうして翌日に呉用と3兄弟は、晁蓋の屋敷に向かった。

晁蓋の屋敷に集まった同志6人は、道教の神像の前で羊の生血をそそいだ酒をすすり合って、盟約の誓いの儀式をした。

(※中国の裏社会や秘密結社の儀式では、動物を殺して生贄にしたり、血をすするといった気味の悪いことがよく行われる)

6人が「我らは天に代わって罰を下し、蔡京の不義の十万貫を奪う」と誓って、酒宴をしていると、1人の道士が訪ねてきた。

晁蓋のところの若い衆は追い出そうとしたが、この道士は若い衆が束になってかかっても、ぽんぽんと投げ飛ばしてしまう。

報せを受けた晁蓋が会ってみると、その道士は年は40前で、頑丈な身体をしている。

道士は公孫勝という名で、幼少より武芸が好きであちこちの道場を回り、方術(道教の妖術)にも通じていると自己紹介した。

公孫勝は「十万貫の儲け話がある」と切り出した。彼も蔡京に贈られる財宝の話を知り、それを晁蓋に伝えに来たのだった。

晁蓋たちは公孫勝も仲間に加えることにした。

公孫勝は、蔡京への贈り物が運ばれる道の情報も得ており、「黄泥岡(こうでいこう)の本街道を行く」と明かした。

「それはもっけの倖せだ。黄泥岡には白日鼠・白勝という知人がいる。そこを根城にすればいい」と呉用が提案した。

🔵楊志は財宝を護送するが、晁蓋たちに騙され奪われる

ところは変わって、ここは北京にある梁中書の官邸。

梁は、義父・蔡京への十万貫の贈り物を護送する者に、部下となった楊志を抜擢することにした。

梁は楊志を呼び出してこの件を伝え、「荷物は10個だ。10の太平車(うしぐるま、特別な荷車)を出し、兵士も好きなだけ付けさせる」と説明した。

だが楊志は、「道中には紫金山、二龍山、桃花山、黄泥岡といった盗賊の巣があります。せっかくですがお断りします。」と言った。

「お前を出世させてやりたいのだ。蔡京・大臣への私の手紙も荷物と一緒にして、お前の立身を推薦する考えだ。それでも受けないのか。」

「分かりました、観念して参ることにしましょう。
しかしそれには条件があります。物々しい太平車や官旗は止めて下さい。
行商人の姿になり、私は行商隊の長に化けて、野盗の目を避けて行きます。」

こうして楊志は財宝を守って開封・東京に行くことになった。

楊志の率いる一行は総勢17名に膨れて、梁中書の夫人が蔡京夫人に贈る物を担ぐ者や、梁家の執事の謝という者も加わった。

楊志の一行が北京を出発して、一ヵ月が経った頃。
太行山脈の一つの峰に来た。こここそ黄泥岡で、盗賊の出没地であった。

季節はすでに夏にさしかかり、その日は酷暑であった。
荷物を運ぶ兵士も執事の謝も、へばって休憩を求める。
仕方なく楊志が道端で休憩を許したところ、怪しい人影があった。

楊志はその者を追いかけたが、見失い、同じく休憩して涼んでいる7人の旅商人に会ったので挨拶して戻ってきた。

するとそこに、酒商人が酒の入った桶を担いで現われた。近くの村で夏祭りがあり、そこに運ぶ途中だと言う。

楊志の一行は、その酒を買って喉をうるおそうとしたが、楊志は「しびれ薬が入っているかもしれん。そうやってカネを奪われた例もある」と言って、買うのを許さなかった。

そこにさっき楊志が会った7人の旅商人が現われて、酒を買って飲み出した。

7人の商人たちが平気なのを見て安心した楊志は、酒を買って飲むのを許し、自分も少しだけ飲んだ。

だが、やはりしびれ薬が入っていたのである。

酒商人と7人の旅商人はグルだった。
酒商人は白勝、7人は晁蓋たちであった。

しびれ薬で楊志ら全員が倒れると、晁蓋たちは荷物を奪っていった。

飲む量が少なかったので一早く目覚めた楊志は、無念さから自殺しようとした。

「生れて三十余年。いったい何をしに生まれてきたのか」と口にし、谷に落ちようとしたその時、それまでの人生の出来事が稲妻の如く思い出され、父母や弟妹、武芸の師などの声が聞こえた。

はっとして「やはり俺は死にたくないのだ」と思い直した彼は、まだ気絶している他の者を置いてよろよろと麓に降りていった。

だいぶ経ってから目覚めた執事の謝は、姿のない楊志を「逃げたのだ」と罵った。

目覚めた16名は、どうするかを話し合ったが、
謝は「全てを楊志の仕業にしてしまおう。奴が盗賊と通じていて言葉巧みに我々に毒酒を飲ませ、宝を持って消え去りましたと、□を合わせて押し通すのだ」と指示した。

楊志のほうといえば、あてもなく歩き、部落にたどりついて、腹が減っていたので飲み屋で無銭飲食した。

店の女主人が声をあげ、食い逃げで村人たちに捕まりそうになったが、かつて東京に住んでいて楊志を見たことがある曹正が、楊志だと気付いた。

曹正は操刀鬼というあだ名を持ち、東京にいた頃は禁軍の師範をする林冲の弟子となって棒術を習っていた。
その後に極道入りして、今では田舎の居酒屋の亭主になっていた。

楊志が食い逃げしようとした飲み屋は、曹正夫妻の店であった。

曹正夫妻は逃亡中の楊志の世話をかって出て、数日泊まらせた。

楊志が身の上を話し、行くあてがないと言うと、曹正は「二龍山の宝珠寺へ行ってみませんか。青州の南にあり、300~400人は立てこもっていて、頭領は金眼虎の鄧龍といいます。」と助け船を出した。

かくして楊志は青州へと旅立った。

🔵楊志と魯智深は二龍山を乗っ取る

楊志が二龍山の麓まで来ると、酒臭い坊主と出会った。

それは花和尚・魯智深で、2人は東京にいた時にお互いの噂を聞いたことがあった。

2人は、なぜここに流れてきたのか、お互いのいきさつを語り合った。

魯智深は前述したとおり、義兄弟となった林冲が流刑地に着くまで同行して、そのあと東京に帰った。

東京に戻った彼は、林冲を殺そうと謀った高俅とその養子たちに讒訴され、逮捕されそうになった。

それで東京を逃げ出し、流浪した。

魯智深は二龍山の鄧龍を頼ろうとここに来たが、鄧龍は有名なお尋ね者の魯智深を恐れて、砦の門を閉じて会おうとしない。

それで酒を飲みながら門が開くのを4日間も待っていたところだと言う。

話を聞いた楊志は、「鄧龍が受け入れてくれないなら、智をもって乗っ取るしかあるまい」と言い、こう提案した。

「一度引いて、私の知人の曹正の家に戻ろう。私に二龍山のことを教えてくれたのは曹正だから、良い智恵が出るかもしれない。」

2人は曹正の所へ行き、3人で相談して二龍山を奪う計略を練った。

しばらく経ったある日、二龍山の鄧龍のところに、縛られた魯智深が百姓たちによって連行されてきた。
百姓たちが言うには、魯智深が村で暴れるので、居酒屋をする曹正がしびれ薬の入った酒を飲ませて捕まえたとのこと。

自分たちで坊主姿の者を殺すのは不気味なので処分してほしい、と彼らは訴えた。

鄧龍の前に連れてこられた魯智深と百姓たちは、ここで本性を現わし、緩い縄を外した魯智深が素早く錫杖で鄧龍を打ち殺した。

二龍山の賊たちは降伏し、宝珠寺は魯智深と楊志が新頭領となった。

新頭領2人は弱い者いじめを禁じ、宋朝の役人たちと闘う反骨の勢力となった。


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