三国志
魏の人物

(『眞説三國志』坂口和澄著から抜粋
2003年9月後半にノートにとり勉強)

🔵曹操 155~220年

祖父は宦官で、父は養子になり大臣などを歴任した。祖父と父が財をなす。

174年 官途につく。

190年1月 董卓打倒の挙兵をする。袁紹が盟主に。

192年 鮑信(ホウシン)らに迎えられて兗州の牧に。

192年 青州の黄巾残党30余万人を降伏させ、精鋭を選んで青州兵を作る。

193年 父・曹嵩(ソウスウ)が殺され、仇討ちのため徐州を攻撃。

194年 留守の兗州を呂布に奪われ、呂布と濮陽で対峙するも決着はつかず。

195年1月 呂布を破り、10月に再び兗州(えんしゅう)の牧になる。

196年8月 漢の皇帝を洛陽より許昌に迎える。劉備は呂布に敗れ幕下に。

197年 張繍に敗戦し、長子の昴(コウ)と弟の子・安民が戦死。

197年 袁術と戦い、大勝する。

198年 呂布を破り、呂布を斬る。

199年 袁紹と官渡で対峙。その間に劉備が小沛で独立する。

200年 劉備を討ち、関羽を捕える(小沛にて) 。
同年9月 袁紹に大勝利する。

204年8月 袁尚を破り冀州を平定。

205年1月 袁譚を斬り、河北を平定。

206年 高幹を破り、并州(へいしゅう)を平定。

207年 烏丸(うがん)を征伐する。

208年6月 漢の丞相になる。
7月に荊州に遠征する。劉琮は降伏。
しかし赤壁の大戦で大敗する。

210年 人物の任用で才能のみを重視すると宣言。

211年 関中で馬超、韓遂らを破り、9月に平定する。

212年 孫権討伐のため濡須(じゅしゅ)に進攻も、213年1月に兵を引く。

215年3月 張魯討伐に出る。11月に降す。

216年5月 魏王になる。

217年 濡須に進攻。孫権は配下になると申し入れてくる。

218年9月 長安に進出。

219年1月 夏候淵が斬られ、漢中を劉備に奪われる。

220年1月 死去。

曹操は、詩が上手だった。
14人の女性に25人の男子を生ませた。

🔵曹丕 187~226年

曹操の息子で、曹植と後継者争いをする。

司馬懿、陳羣(チングン)、朱鑠(シュシャク)、呉質らが強力に曹丕を推したことと、 賈詡の助言で謙虚にふるまったため人望が増し、 217年に太子になった。

220年10月 曹操の後を継ぐと、帝に禅譲させて、帝位に即く。
同年12月 洛陽に遷都する。

在位中、何度か呉に出兵するが戦果は無し。

🔵曹叡 ?~239年

226年に曹丕が死ぬと、帝位を継ぐ。
239年1月に死去した。曹芳が後を継ぐ。

🔵曹仁 168~223年 病没

曹操の従弟(いとこ)。190年に曹操の部下になる。

208年 赤壁の戦いの後、江陵にて小軍勢にて周瑜の大軍をしりぞける。

209年 江陵から撤退。

219年 樊城を守っている所を関羽が急に攻めてくる。守りきる。

🔵夏侯惇(かこうとん) ?~220年

曹操と同郷で、184年の黄巾討伐の時に曹操の部下として参加する。

195年 呂布の討伐戦で左目を傷つける

🔵夏侯淵 ?~219年

夏侯惇の族弟(いとこ)である。突撃を得意にする武将。

184年の黄巾討伐の時に曹操の配下になるが、それ以前から曹操とは友人だった。

214年 韓遂と馬超を破り、羌族(きょうぞく)を従える事に成功。

219年 定軍山の戦いで黄忠に斬られて戦死。

🔵典韋 ?~197年 大柄で怪力

190年 董卓討伐の挙兵時に兵士になり、やがて夏候惇の部下になって曹操軍に入る。

194年の呂布との戦争で活躍。すると曹操の親衛隊の隊長に選ばれ、身辺警固をする。

197年 張繍の奇襲で戦死。

🔵楽進 ?~218年 小柄な体格

おそらく190年の董卓討伐の挙兵時に曹操の配下になった。

194年の呂布との戦争、195年の張超との戦争、197年の橋蕤(キョウズイ)との戦争で、先鋒で活躍する。

官渡の戦いでは、淳于瓊を攻撃して兵糧を奪うように進言し、淳于瓊を捕まえる大功をあげる。

208年の荊州攻めでは、関羽らの軍をしりぞける。
218年に病死。

🔵于禁 ?~221年

184年の黄巾の討伐時に、鮑信の配下になる。

192年 王朗の推薦で曹操の部下になる。多くの戦争で功績を上げる。

200年 劉備に呼応して独立した昌豨(ショウキ)を討伐して降す。

219年 関羽軍に敗れて捕まり、関羽が呉軍に負けると呉に連行される。

200年 孫権が魏に対して諸侯に任じられた礼をとり、于禁を解放して帰国させる。
その後、関羽に降伏した件で曹丕の嫌がらせを受け、恥じかつ憤って、病死した。

🔵張遼 165~222年

丁原→董卓→呂布と仕えて、 呂布の敗死時に曹操に降伏し、配下となる。

215年 合肥城を守備して、楽進、李典と共に7千の兵で10万の呉軍をしりぞける。

関羽と親交があった。

陳寿(三国志の著者)は、張遼、楽進、張郃、徐晃、于禁の5人を、曹操の部下でも抜きん出た将軍と評価している。

🔵張郃 ?~231年

元は袁紹の配下である。
200年の官渡の戦いで淳于瓊が敗れた時に、張郃は曹操と対峙していたが降伏した。

その後、袁紹の本拠地・鄴を陥れ、袁譚を討ちとった。

207年 烏丸(うがん)の征伐で活躍。

211年 韓遂、馬超との戦いで活躍。

215年 張魯との戦争で先鋒として活躍。

228年 祁山(きざん)の戦いでは、馬謖の布陣の弱点を見抜いて大勝する。
そして南安、天水、安定の諸郡を取り戻す。

231年 司馬懿の命令で孔明軍を追撃中、伏兵に襲われて戦死。
張郃はこの追撃に反対したが、司馬懿は受け入れなかった。

🔵徐晃 ?~227年

黄巾の乱の時に、黄巾賊の楊奉に従う。

196年 洛陽に入った曹操が楊奉を討つと、曹操の配下になる。

199年 袁紹配下の眭固(スイコ)を斬り、200年には文醜を破る。

一時は曹操の配下にいた関羽と、親交を結ぶ。

219年 関羽との戦争で大勝する。227年に病死。

🔵臧覇(ぞうは) ?~227年頃

184年 陶謙に従って黄巾党を破り、その後は徐州で山賊になる。

194年 呂布に味方して曹操軍と戦う。

198年 呂布が曹操に敗れ、捕まるが、許されて配下に。

青州と徐州の統治を任され、かつての仲間が各地の太守として支えた。

🔵許褚 ?~226から232年の間 身長は8尺(190cm)

190~193年頃に曹操の配下になる。親衛隊長として身辺警護を任される。

211年 馬超に急襲されて曹操が船で逃げた時、矢を防いで大功をあげる。

馬超らと曹操が単身で会見した時も付いてゆき、気迫を見せて守った。

慎み深く、質朴な性格。

🔵郭嘉 170~207年 字は奉孝

初めは袁紹に仕えるも、袁紹に失望して、197年に荀彧の推薦で曹操の配下となる。

「袁紹が公孫瓚と戦っている間に呂布を討つべき」と進言する。

198年の呂布との戦争で苦戦した時、曹操は退却を考えたが、荀攸と共に急攻を主張し、12月に呂布を斬る事に成功した。

200年に官渡で袁紹軍と対峙している時、孫策が許 (曹操の本拠地)を襲う動きがあった。
だが郭嘉は、「孫策は匹夫の手にかかり死ぬ」と予想して焦らなかった。

同年の劉備討伐戦も、多くが反対する中で、郭嘉は袁紹の決断力のなさを指摘し、討伐を勧めた。

207年の袁尚と烏丸の討伐の時も、「討伐に出たら劉表が劉備に命じて攻めてくる」と人々は反対した。
だが郭嘉は、「劉表は劉備を使いこなせない」と考えて、討伐を勧めた。

曹操は、「奉孝のみが私の意図を知っている」と言っていた。
郭嘉は品行の修まらぬところがあったが、曹操は気にしなかった。

🔵荀彧(ジュンイク) 163~212年 名族の出身で、祖父や父が有名人

189年に官職につくが、董卓が権力を握ると官職を捨てる。

潁川(えいせん)郡潁陰県の出身で、同郡の辛評、郭図らは袁紹に仕えたが、荀彧は袁紹の能力を疑い、191年に曹操に仕官した。

194年、曹操が陶謙の征伐で徐州に行っている際、張邈(ちょうばく)と陳宮が挙兵して呂布と結んだ。
荀彧は、夏侯惇、程昱らと共にそれと戦った。

195年 陶謙が死去した際、曹操は再び徐州を征伐しようとしたが、荀彧は「現在の領地である兗州を固めるため、呂布を追うことが先決」と進言し、いれられる。

196年 漢の帝を迎える時は、時期尚早という意見もあったが、荀彧は強力に勧めた。
その後、人材の推挙を命じられると、荀攸、鍾繇(ショウヨウ)、陳羣、郭嘉ら同郷の人物を推挙。

さらに華歆、王郎、 杜襲、司馬懿ら、評判の高い人物を招致する。

200年 官渡の戦いで兵糧不足となった際、曹操は退却するかを相談したが、荀彧は「奇策で対抗するべき」と進言した。

201年 曹操が袁紹を合戦で破り、次は劉表を攻めようとした時、「まず袁紹を完全に倒すべき」と進言し、いれられる。

212年 曹操は国公となり、自分が帝になろうとの野心を露骨にし始める。
荀彧はあくまで朝廷を補佐するのが曹操の役目だと思っていたので、これに失望する。最後は自殺したらしい。

🔵荀攸 157~214年 父と荀彧が再従兄弟(またいとこ)

189年 何進の求めに応じて官職につく。当時すでに名士だった。

董卓暗殺の計画に加わり、投獄される。

董卓の死後に帰郷する。

196年 曹操の召しに応じる。

200年 官渡の戦いでは、敵の背後を衝くように見せかけて敵の兵力を分断させる策を進言。これがうまくゆき顔良を斬る事に成功。

203年 袁譚が和親の申し入れをしてきた際、多くの者が「劉表討伐を優先させるため放っておいた方がいい」と進言した。
だが荀攸は、「袁譚と袁尚の仲が悪いうちに倒した方がいい」と進言。曹操は袁譚と和親して、袁尚を倒した。

鍾繇と親友の仲である。

🔵程昱(テイイク) 140?~220年 190cm以上の長身

184年 黄巾の乱の時、地元の豪族を味方につけて鎮圧に活躍する。

190年 劉岱に招かれたが応じず。

192年 劉岱は青州の黄巾党に殺されるが、程昱は曹操の元へ行く。

194年 張邈、陳宮が呂布と結んだ際、防戦して功績を上げる。

194年 曹操が呂布に苦戦し、いなごの被害で困った際、袁紹が「曹操の家族を人質にさし出すなら援助しよう」と持ちかけてくる。
曹操は受けようとするが、程昱が止めさせた。

199年 曹操が、劉備を徐州に派遣して袁術と対峙させようとした時に、郭嘉と共に反対する。

強情な性格で、人と衝突することも多かった。

🔵張繍(チョウシュウ) ?~207年

族父(おじ)が董卓の部下の張済で、初めは張済に従っていた。

196年 張済が戦死。後を継ぎ劉表と合流する。

197年 曹操に敗北し降伏するが、曹操が張済の未亡人を妾にしたのに怒り襲撃する。曹操軍を追い払い、その後は再び劉表と結ぶ。

200年 腹心の賈詡に勧められて再び曹操に降伏。

🔵賈詡(カク) ?~?年

董卓殺害の際は、李確、郭汜らに付いていて、長安への進軍を勧める。

その後、李確らは長安の人々を大虐殺し、2年で人口がほぼゼロになる。

197年 張繍の配下になる。
その後、張繍が曹操に降伏すると、曹操の配下に。

曹操の後継者争いでは曹丕につき助言をする。
曹丕の時代に死去したらしい。77歳で病没。

🔵司馬懿(シバイ) 179~251年 名門の出身

201年 官職につく。曹操に招かれるが断わる。

208年 曹操に脅されて配下になる。曹丕と親友になる。

215年 張魯征伐に成功した際、一気に蜀に攻め込むよう進言する事が入れられず。

曹丕の代になると片腕として活躍。
曹丕は死ぬ際に、後を継ぐ曹叡に、「司馬懿、曹真、陳羣の三人を一番重職にして自らを補佐させろ」と命じた。

曹叡の代は、司馬懿は荊州と豫州(よしゅう)の軍事を任される。

220年 孟達が魏に降った際は、疑いを持ち孟達を討つ。

諸葛亮孔明の北伐では、第3次の231年と、234年で対決する。どちらも持久戦に持ちこむ。

238年 遼東の公孫淵を滅ぼす活躍を見せる。

239年 曹叡が死去。死ぬ前に曹爽と共に後事を託される。
曹芳が帝位につくが、司馬懿は曹爽に警戒されたため248年までおとなしく過ごす。

249年1月 曹芳、曹爽らが父帝の陵に参拝するため都を離れた時にクーデターを起こし、曹爽を殺す。

🔵李典 180頃~216年頃

従父の李乾と共に曹操に従い、192年に黄巾党を破る。

呂布の配下にいる薛蘭、李封が、李乾に「反乱を起こそう」と誘いをかける。
断わったため李乾は殺され、李典がその軍を継ぐ。

李典は、若い頃は学問好きで軍事は好まなかった。

203年 劉備との戦争において、劉備の退却が策略であると見抜き、夏侯惇に忠告するが入れられず、大敗する。

204年 楽進と共に高幹を破る。

215年 合肥の戦いでも活躍。
だが36歳で病没。

🔵満寵 ?~242年 190cmの偉丈夫

192年 曹操の配下になる。汝南大字になり、汝南を平定する。

219年 樊城の戦いでは曹仁を補佐して守り抜く。

220年 江陵にて呉を破り、222年にも呉を破る。

234年 呉は大軍を孫権自らが率いて攻めてきたが、満寵は火攻めで大勝する。
この呉の軍事行動は、諸葛亮の北伐との共同作戦だったらしい。

🔵劉曄 ?~?年

197年 曹操の配下になる。

215年 張魯との戦争で兵糧が欠乏した時、曹操は退却を考えるが、劉曄は強攻を主張して採用される。

漢中平定後、蜀に攻め込む事を進言するが、これは容れられず。

曹叡の時代に発狂死した。

🔵文聘 ?~?年

荊州出身で、劉表に命じられて北方の防御をしていた。

208年 曹操が攻めてくると降伏。

赤壁の戦いの後、江夏太守に任じられて、以後は江夏を守り続ける。

212年 楽進と共に関羽を攻める。

219年 関羽が攻めてきた時、関羽の輜重(しちょう)を攻めて背後を脅かす。

226年 呉が孫権自ら5万の兵を率いて攻めてくるが、撃破する。

🔵龐悳(ホウトク) ?~219年

涼州の出身で、190~193年頃に馬騰の配下として羌族や氐族(ていぞく)の反乱鎮定で功績を上げる。

張白騎の反乱の時も功を上げ、馬騰軍で随一の剛勇ぶりだった。

208年に馬騰が中央政府に召されると、龐悳は馬超に随従し、213年の馬超の漢中入りまで共に戦う。

214年 馬超は劉備の許へ行くが、龐悳は漢中に残る。

215年 曹操が張魯を降すときに、降伏して配下になる。

219年 樊城の戦いでは、関羽の額に傷をつける活躍をみせる。
関羽に降伏しようとした董衝、菫超を斬り、奮戦する。
最後は関羽軍に捕えられ斬られた。

🔵賈逵(カキ) 174~228年

212年 呉討伐の時、出陣を諌めたので、牢に入れられる。
だが間もなく許されて元の職に復帰。

222年 豫州刺史に任命され、治民の才を発揮。呉の抑えとなる。

228年 周魴事件では、曹休の危機に駆けつけて救う。

🔵董昭 ?~?年

袁紹、張楊と仕えて、196年頃に曹操に仕官する。

196年当時、漢の皇帝は韓暹(カンセン)、楊奉、董承らが握っていたが、董昭は楊奉をだまして帝を曹操のいる許に運ぶのに一役買う。

帝を失った韓暹、楊奉らは袁術に降った。

213年 発議して曹操を魏公にし、九錫を備えさせた。

曹叡の時代に死去したようだ。享年81歳。

🔵曹真 187頃~230から239年の間

曹操の養子で、曹氏の血は引いていない。
曹丕と幼なじみとして育つ。

222年 大将軍になり兵権のトップに立つ。

228年 諸葛亮の第1次北伐では、張郃に命じて戦わせ馬謖を破る。

230年 蜀への進攻作戦を司馬懿と二人で司令官になり行うが、長雨のため一戦もせずに撤退。

🔵曹爽(ソウソウ) ?~249年

曹真の息子。
曹叡に寵愛されて、重職につく。

曹叡の死後、司馬懿と共に7歳の曹芳を補佐するが、ろくでもない連中を重用して、司馬懿を太傳に祭り上げて政治から遠ざけた。

244年 7万の大軍を率いて蜀を攻めるが、王平がよく守ったため勝てず退却する。
過酷な輜重に怨みが満ち、評判を落とす。

249年 司馬懿のクーデターで殺される。

🔵郝昭 ?~?年

228年11月 諸葛亮の第2次北伐を、陳倉城にて撃退する。

蜀軍は数万人、陳倉城は1千人ほどだったが、蜀軍は兵糧不足で20日で撤退した。

🔵郭淮(カクワイ) ?~255年

217年頃に曹操の配下になり、曹丕に配属する。

220年から雍州(ようしゅう)刺史として羌族を鎮める。

228年 諸葛亮の第1次北伐では、高翔の軍を破る。

240年 攻めてきた姜維を追い払う。

247年 姜維と呼応した羌族を撃破。

248年 姜維、廖化に勝利する。
255年に病死。

🔵王淩 ?~251年

叔父の王允は、呂布をそそのかして董卓を殺させた事で有名な人。
ちなみに呂布が惚れた美女・貂蝉(ちょうせん)のエピソードは、全くの作り話である。

208~213年頃に曹操の幕下に入る。

222年 曹丕の呉への進攻に従い、呂範の水軍を破る。
その後に青州刺史に。
青州は黄巾党の乱の後、ずっと荒廃していたが、それを復興して評価を高める。

228年 呉との戦争(石亭の戦い)で曹休に従って戦い、賈逵らと共に力戦する。

240年 淮南の統治を任され、翌年に呉の全琮を退ける。

249年 司馬懿が力を付けるのに対抗し、曹彪を擁立しようと計画する。

251年 クーデター計画がばれて、司馬懿に降伏。そして自殺する。

王淩のクーデター計画は、淮南で起きた三反乱の1番目であった。
淮南は呉に近くて応援を頼めたのと、240年代に鄧艾が治水・農産に努めたことで豊富な兵糧があったため、反乱の場所となった。

🔵諸葛誕 ?~258年

諸葛亮の族弟である。
曹芳の代になってから重用される。

255年 毌丘倹(カンキュウケン)、文欽が淮南で、司馬師を討伐する兵を起こす。
諸葛誕は味方になれと誘われるが、これを断わり、淮南を攻めた。

この功績で、淮南を任される。

254年に司馬師に不満を持った夏侯玄と李豊がクーデター計画を練り、ばれて殺されていた。
諸葛誕は、夏侯玄らが粛清されていく状況に不安を持っていたので、兵を養った。

257年 司馬昭は諸葛誕を兵権から遠ざけようとし、諸葛誕はついに反乱にふみ切った。
呉から三万の兵の援助をもらうが、26万の大軍に囲まれて戦死した。

🔵鄧艾(トウガイ) ?~264年

貧しい家の出身。
208年の曹操の荊州攻めの時、汝南に移住して農民をした。やがて魏に仕官する。

235~239年頃に司馬懿に見出され、淮南地方の灌漑と屯田に力をそそぎ、241年に運河を完成させる。

この運河が、後の淮南反乱の時に、司馬氏父子の兵の迅速な行軍に役立った。

郭淮と共に姜維の進攻を防ぎ、249年、255年、257年、262年と大勝する。

263年 鍾会と共に蜀に攻め込み、諸葛瞻(ショカツセン)を討ち取り、雒(らく)まで進んで劉禅を降伏させる。

しかし鍾会らの讒言や、司馬昭の謀略もあり、反逆の罪を着せられて暗殺された。

🔵鍾会(ショウカイ) 225~264年

鍾繇の妾腹に生まれた。

255年の毌丘倹(カンキュウケン)の討伐や、257年の諸葛誕の討伐で活躍する。
司馬昭の信頼を得る。

263年の秋 十余万人の兵を率い、総大将として蜀に攻めこむ。
鍾会が剣閣の姜維を攻めている間に、鄧艾が成都を落した。
蜀を滅ぼす。

その後、鄧艾に専断の振るまいがあるのにつけこみ、反逆の意志があると司馬昭に報告する。鄧艾は囚人としては召還されることになった。

鍾会は蜀の地で反乱を考えていたが、司馬昭に見破られた。
焦った鍾会は、成都に入城した翌日に部下と蜀の官僚を集めて、前年暮れに死去した太后の遺詔を偽作して、司馬昭討伐を宣言する。
これに姜維も加担した。

捕らえられていた胡烈という将軍が、「鍾会が兵士を皆殺しにしようとしている」とのデマを流し、怒った兵達に斬殺された。

(2024年12月20~22日に作成)


BACK【中国史 三国時代】 目次に戻る

目次【中国史】 トップページに行く

目次【世界史の勉強】 トップページに行く

home【サイトのトップページ】に行く