タイトル関羽の生涯⑤
荊州の守備を任される

(以下は『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)

212年に曹操は、西に遠征して(涼州の)馬超を打ち破った。

この時に曹操は、益州の一部である漢中にも侵攻する構えを見せた。

益州の牧である劉璋は、曹操に対抗するため、荊州にいる劉備に応援を頼んだ。

益州が欲しい劉備には渡りに船の話で、劉備は自ら軍を率いて益州へ向かった。

劉備軍が益州に入ると、大歓迎を受けて宴会が100日以上も続いた。

宴会が続く中、その裏では劉備軍の軍師・龐統と、劉璋配下の張松と法正が密談して、劉璋の排除を企てた。

彼らは劉璋の暗殺を計画したが、劉備は「まだ早い」と言って応じなかった。

同じ212年に曹操軍は、今度は揚州(孫権の支配地)を攻めた。

すると孫権は劉備に応援を求めて、劉備は揚州に向かう準備を始めた。

劉備軍が益州を去るのが面白くない劉璋は、劉備軍に出国しないよう命じた。

これに対し劉備は、「揚州を守るのは益州のためになる事だ。それを阻止する劉璋は、益州のためにならない」と言って、劉璋と戦争を始めた。

なお、孫権から劉備に救援依頼が来たというのは、劉備のでっち上げという見方もある。

劉備が始めた益州奪取の戦争は、途中で軍師・龐統が戦死しつつも、214年に勝負所をむかえた。

この時に劉備は、荊州に残っていた諸葛亮、張飛、趙雲に出陣を命じた。

劉備配下の主要メンバーのうち、関羽だけが荊州に残り、荊州を守ることになった。

諸葛亮、張飛、趙雲は3軍に分かれて、3方面から劉璋のいる益州の成都に攻め寄せた。

ここに劉備陣営に新加入の馬超も参戦したので、ついに劉璋は降伏した。

益州を奪った劉備は、益州の牧となった。

関羽は「荊州事」に任命されて、荊州の行政・軍事すべての責任者となった。
関羽はこの時55歳だった。

関羽は以後、江陵城を拠点として荊州を治めた。

荊州の江陵城(※荊州城ともいう)は、前901年に誕生しており、3千年近い歴史がある。

その長い歴史の中で、関羽が城主だったのはわずか6年である。しかし人々にとっては関羽の城のイメージが強い。

関羽は、江陵城主の時期に、腕の治療の逸話を残している。

関羽は合戦で受けた左腕の矢傷がうずくので、医者に診てもらった。

医者は、「矢に毒が塗ってあり、その毒が骨に入っています。腕を切開して、骨を削って毒を取るしかありません」と診断した。

関羽は医者に手術させたが、諸将と会食しながらで、腕から多くの血が出ているのに焼肉を食べ、酒を飲み、諸将と談笑していた。

劉備が益州を奪取すると、荊州の4郡を返すように、孫権が求めた。

孫権は、赤壁の戦いの直後に劉備が得た荊州南部の4郡について、劉備に貸したつもりだった。

215年に孫権は、諸葛瑾を使者として劉備と交渉した。

劉備は諸葛瑾に対し、「これから涼州(※益州の北にある)を攻略するから、涼州を平定したら荊州は孫権殿に与えよう」と言った。

「返そう」ではなく、「与えよう」と劉備は言った。

孫権は劉備の態度を見て、強引に荊州を奪おうとした。

孫権は3郡だけの返還で納得することにし、3郡に勝手に官吏を赴任させた。
だが関羽に追い返された。

孫権は出兵に踏み切り、呂蒙が2万の兵を率いて3郡に向かった。

これに対し関羽は3万の兵で対峙し、劉備も公安城(江陵城の南にあり、揚子江を渡った所にある)まで出張ってきた。

孫権配下の魯粛の呼びかけで、関羽と魯粛が会談することになった。
関羽が魯粛に会いに行った。

関羽は、「赤壁の戦いで、劉備将軍はあなた方と協力して曹操を打ち破りました。それなのにわずかな土地も(荊州に)もらえないのでは話になりません」と話した。

対する魯粛は、こう話した。

「赤壁の戦いの時、劉備殿は曹操との戦争に敗れ、再起の手がかりとなる領地さえなかった。
その状況に同情したからこそ、我々は土地を貸したのです。

いま劉備殿は益州を手に入れたのに、こちらが3郡の返還に譲歩しても無視しておられる。」

上の魯粛の話に、関羽の従者が「土地は徳のある人に属するもので、元来、誰のものとも決まっていない」と口を挟んだ。

魯粛は、この従者を叱りつけた。

関羽は会談を打ち切ることにし、「この従者はよく分かってないのです」と言って、その男を後ろに下げた。

関羽と魯粛の会談は、これで『三国志』の記述は終わっている。結論が出なかったのだろう。

2人の会談の直後に、曹操が漢中(※益州の一部)に侵攻したことで、こじれた領土問題は一気に解決した。

荊州まで来ていた劉備は、益州に戻って防御を固めるため、孫権と講和することにし、3郡(長沙、零陵、桂陽)を返還することにした。

魯粛は、2年後の217年に46歳で病死した。

もし彼が2~3年長く生きたら、219年に関羽が孫権に裏切られて死ぬことはなく、歴史は別の展開を見せただろう。

関羽は、荊州の江陵城を守り続けた。

江陵城から真西に700kmの所に、益州の成都がある。そこに劉備は居た。

張飛は、益州の北部である巴西部の太守となった。

馬超が劉備の配下になると、劉備は重要な役目を与えたので、関羽は諸葛亮に手紙を出し、「馬超はどんな人物なのか」と尋ねた。

諸葛亮は関羽の自尊心の高さを知っているので、こう返事した。

「馬超は文武を兼ね備えた勇者で、張飛殿と良い競争相手ですが、ヒゲ殿(関羽)の抜群ぶりには遠く及びません」

関羽は手紙を読むと大喜びし、賓客に見せた。

219年に劉備は漢中王を名乗り、関羽を前将軍に、黄忠を後将軍に任命した。
(※前将軍と後将軍は、同格の役職である)

江陵城の関羽に前将軍任命を知らせる使者は、費詩だった。

関羽は費詩に対し、「大丈夫たる者、あのような老人(黄忠)と同列に扱われるのは心外だ。前将軍の官位はお断わりする」とゴネた。

費詩は説得にかかり、こう話した。

「高祖(劉邦)はかつて、新参者の韓信や陳平を最も高い位につけました。
しかし初期から高祖の仲間だった蕭何や曹参が、その人事を恨んだ話は聞きません。

漢王(劉備)と関羽殿は一心同体の間柄なのだから、位の上下を気にしない方がいいのではないでしょうか。

関羽殿が断るなら、私はこのまま帰りますが、後で悔やんでも取り返しはつきませんよ。」

費詩の話を聞くと、関羽は「おっしゃる通りだ」と反省し、昇進の令を受けた。

尚この時に関羽は、荊州にある曹操領の襄陽と樊城の攻略を命じられた。

(2025年1月11日に作成)


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