(以下は『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)
218年に孫権は、息子の嫁に関羽の娘をもらおうと考えて、使者を出した。
ところが関羽は使者を罵って追い返したので、孫権は激怒した。
これが蜀(劉備)と呉(孫権)の同盟を壊す原因となった、との見方もある。
関羽ほどの立場の者が、子供の政略結婚の話で怒って使者を追い返すのは、変である。
そこで『三国演義』では、孫権がもらおうとするのは関羽が50代になってから生まれた幼子という設定にして、幼い娘を嫁にと言われてカッとなる話にしている。
呉では、217年に魯粛が亡くなると、呂蒙が軍権を握った。
呂蒙は孫権に、次の戦略を提案した。
「呉は(荊州の関羽の支配地を奪い)襄陽まで進むべきです。関羽は安心して味方にできる者ではありません。
劉備と関羽は欺きをくり返しており、彼らが呉を攻めないのは我々の態勢がしっかりしているからです。
早いうちに関羽を倒すべきです。」
孫権が「曹操が支配する徐州のほうが手薄だから、徐州を攻めるべきでは?」と尋ねると、 呂蒙はこう答えた。
「徐州を攻め取っても、10日で曹操軍がやってくるので守るのに不安があります。
関羽を倒すのに的を絞るべきです。」
孫権が同意して、上の戦略が採用されると、呂蒙は関羽との外交でわざと下手に出て、表面上は友好の態度を続けた。
219年になると劉備は、関羽に「荊州の曹操領である襄陽と樊城を攻めろ」と命じた。
この時、荊州の関羽が治める地域では、博士仁と糜芳の2人の将軍が、上司である関羽の厳しさに恨みを持っていた。
だが関羽は襄陽を攻めるにあたり、糜芳に江陵城の守備を任せて、博士仁に公安城を任せた。
関羽に襄陽攻めを命じる前に、劉備軍は2度、益州の漢中で曹操軍に勝っていた。
曹操は219年には65歳となり、かつての覇気は消えかけていた。
劉備は攻めるチャンスだと見たのである。
関羽は219年の春に出陣して、曹仁の守る襄陽城に向かった。
この時、関羽は60歳だった。
関羽はすぐに襄陽城を落としたが、正史に詳しいことは書かれていない。
曹仁は関羽軍の勢いを見て、すぐに樊城まで後退したのかもしれない。
関羽が襄陽城を攻めた時、呂蒙は自分の病気を利用して、関羽を欺く策に出た。
まず呂蒙は、孫権に手紙でこう伝えた。
「関羽は江陵城に多くの兵を残していますが、我が軍の攻撃を予想しているからです。
私を建業に呼び戻して下さい。
私は、病気治療のため建業に戻ったと公表します。
私が陸口(江陵城の東南にあり、関羽領と接している呉の最前線)から去れば、関羽は江陵城の部隊を襄陽攻撃に使うでしょう。
その機を逃さずに関羽を攻めるのです。」
呂蒙が建業に戻ると、陸遜が訪ねて来てこう言った。
「関羽は、自らの武勇を自慢し、人を見下しがちです。
彼は初めての大功(襄陽城の陥落)を挙げて、ますます驕っているでしょうし、我々のことをあまり気にかけてません。
あなたが病気と知ればさらに警戒を緩めるはずで、そこを攻めれば勝利間違いなしです。」
呂蒙は孫権に会い、陸遜を自分の後任に推薦した。
こうして陸遜は陸口に赴任した。
関羽は、襄陽城を落とすと、その北にある樊城の攻略にかかった。
樊城攻めは、219年秋の始めに開始されたが、しばらくすると長雨になった。
樊城の南にある漢江が大雨で氾濫寸前となった。
曹操は于禁を総大将にした援軍を樊城に送ったが、関羽は漢江の水を使って于禁軍を倒し、于禁と龐徳を捕えた。
于禁は降参したが、龐徳は降参せずに死刑となった。
少し後の話になるが、于禁は関羽が呉軍に敗れると、呉の捕虜となり、やがて魏に送り返された。
漢江の氾濫で、樊城と襄陽城は水に囲まれる状態となった。
水面は、樊城の城壁の上まであと1丈の所に来たという。
関羽は大船団で樊城を包囲した。
樊城から曹操の住む許昌までは250kmである。
曹操は樊城が落ちることを想定し、遷都を考えて、臣下に相談した。
すると司馬懿と蔣済(しょうせい)が反対して、こう説いた。
「孫権は関羽の成功を望んでいません。
関羽の治める地を孫権に与えることを許可すれば、孫権は関羽を攻めて、樊城の包囲は解けるはずです。」
司馬熱はこの時41歳だった。
『魏書・董昭伝』にこうある。
「曹操は、孫権に(関羽を攻めるよう)手紙を出すにあたり、密書にすべきだろうかと臣下に尋ねた。
皆が当然ですと答える中、董昭だけが『関羽にも密書の内容を流すべきです』と答えた。
董昭はこう説いた。
『関羽が孫権軍を警戒して軍を退けば、我々の目的は果たせます。
さらに樊城にも情報を伝えるべきです。
包囲されている樊城をカづけるためです。
ただし関羽は強気の男なので、簡単に退くとは思えません。』
こうして関羽の軍へも矢文で情報は伝えられたが、関羽は動かなかった。」
『呉書・陸遜伝』は、こう書いている。
「陸遜は陸口に赴任すると、関羽に手紙を書いた。
その内容は、次のとおりである。
『私はかねてから関羽将軍の勇名を聞いております。
私は将軍と力を合わせていきたいと願っております。
若輩の私のご指導をよろしくお願いします。
于禁らがあなたの捕虜になった時、わが軍も喝采しました。
関羽将軍の功績は天下の長にふさわしいものです。
私はいまだに書生ですので、拙い策を立ててもどうかお許し下さい。』
関羽はこの手紙を読み、すっかり安心してしまった。」
樊城の攻撃中、博士仁と糜芳が物資補給を怠るので、関羽軍は食糧不足となった。
怒った関羽は「帰ったらあの2人を裁く」と発言したが、このため2人は不安にかられて、孫権に接近した。
『呉書・呂蒙伝』には、「関羽軍は食糧不足を口実にして、呉の持つ倉庫から食糧を無断借用した」とある。
倉庫の場所は湘江沿岸で、場所から見て博士仁か糜芳がやったのだろう。
関羽の要求に応じられる食糧が無かったためかもしれない。
この事件は、孫権が関羽を攻める口実を与えた。
呉軍の江陵城の奪取は、博士仁と糜芳が寝返ったので迅速に進んだ。
江陵城が奪われた事を、関羽はしばらく知らなかった。
一方、曹操は自ら出陣することに決めて、それを知った曹仁は樊城を出て総攻撃に移った。
魏軍と呉軍のはさみ討ちにあった関羽軍は、退却することにした。
この時の関羽には、襄陽城に籠城する手もあった。
ここならば援軍が来るまで防げたはずだ。
だが関羽は、江陵城を目指して南下した。
呂蒙が江陵城に入ったとの情報は得ていたが、呉との同盟をまだ信じており、道すがら何度も呂蒙に使者を出して、「どういう状況なのだ」と尋ねている。
呂蒙は使者を丁重にもてなし、江陵城内を自由に見せ、住民は無事で優遇されていると知らせた。
関羽軍の兵士は、これを知ると土気が衰えていった。
襄陽城が曹操軍の手に落ち、江陵城も孫権軍が奪ったと気づいた関羽は、江陵城の北西にある麦城に入った。
『呉書・呉主伝』にこうある。
「孫権は使者を送って、関羽に降伏を勧めた。
関羽は『勧告を受け入れる』と偽りの返事をし、隙をみて城を脱出した。
関羽に従う者は10騎余りだったが、12月に潘璋の部下の馬忠が、章郷で関羽親子を捕らえた。」
『蜀書・関羽伝』には、「関羽と息子の関平は、臨沮で斬られた」とある。
『関羽伝の注』は、次の事を書いている。
「孫権は関羽を用いようとしたが、左右の者が『狼は飼い馴らせないものです。曹操は関羽を殺さなかったので、痛い目にあいました。生かしておいてはなりません。』と言ったので、関羽は斬られた。」
関羽の首は、曹操の所に送られて、220年1月に曹操のいる洛陽に届いた。
曹操は手厚く葬った。
曹操は関羽の首を見てから、同じ1月に66歳で亡くなった。
孫権が関羽の首を曹操に送ったのは、呉と蜀漢の同盟が解消になったし、曹操に従う意思を示したのだろう。
曹操が亡くなると、息子の曹丕は220年10月に、献帝に代わって帝位に就いた。(後漢の滅亡)
これを知った劉備は、漢王朝の正統を継ぐとして、蜀漢の皇帝を名乗った。
孫権も、9年後に呉の皇帝となった。
劉備は、関羽の死後、関羽を裏切った孫権を攻めようとした。
ほとんどの者は反対しなかったが、趙雲は「国賊は献帝から位を奪った曹丕であり、 我々は魏を攻めるべきです」と述べて反対した。
劉備は考えを改めず、趙雲を孫権攻めから外した。
孫権(呉)攻めの準備中に、張飛が部下2人に殺された。
張飛は部下に厳しく、体罰を科すこともあり、恨みを買っていた。
劉備が率いる蜀軍は、221年7月に揚子江を下り、荊州の呉領を攻めた。
陸遜は持久戦で対応し、火攻めで大勝した。(夷陵の戦い)
劉備は揚子江を上って逃げ、白帝城に入った。
ちなみに、陳寿(三国志の編著者)の父とされる陳式(ちんしょく)は、夷陵の戦いで蜀の水軍を指揮した1人で、呉軍に敗れて敗走した。
劉備は白帝城で病発し、成都へ帰れなくなった。
それで223年春に諸葛亮を成都から呼んで、後事を託した。
223年4月に劉備は亡くなった。63歳だった。
263年に魏が蜀を滅ぼした時、龐徳の息子・龐会が、父を殺された仇として関羽の遺族を残らず殺したという。
しかし関羽の研究者によれば、生き残りがいた。
(※関羽の子孫と名乗る者が現存する)
関羽は死後、忠義の人として人気が出て、神として祀られるようになった。
11世紀の初めに、宋王朝が関羽信仰を国教にした。
関羽を護国の神にしたのである。
その後の元王朝や明王朝も、関羽信仰を広めた。
関羽信仰を政治利用した。
清王朝も同様で、清の時代に関羽信仰は最も盛り上がった。
宋から清まで900年の長きにわたり、関羽は国家の神の地位にあった。
このため各地に関羽廟が作られていった。
関羽を財神(商業の神)に変化させたのは、商人である。
山西省、陝西省、甘粛省の商人たちは、清の時代になると中国全土の金融を支配した。
彼らは、会合や宿泊に使うため「会館」を造った。
会館は、関帝廟とセットになっていた。
会館はきらびやかな建物が多く、現在まで残るものもある。
(2025年1月11日に作成)