(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
司馬氏は、(司隷の)河内(かだい)郡・温県の出身である。
河内は、洛陽の北東にあり、洛陽から黄河を渡った所にある。
河内は殷の都があったとされる所で、程近い安陽県で殷墟が発見されている。
『晋書(晉書)』によると司馬氏の祖先は、秦が滅亡した後に出た18王の1人である殷王・司馬卬(しばぎょう)の子孫が河内郡に住み着いたとする。
同書は司馬卬の8世の孫が司馬鈞とするが、司馬鈞は実在が確認されており、羌族の大反乱(107~118年)の時に討伐軍の将軍となった。
『後漢書』によると、司馬鈞は115年10月に友軍を見殺しにしたとして投獄され、獄中で自殺した。
司馬鈞の子・司馬量は予章太守に、司馬量の子・儁(しゅん)は潁川 (えいせん)太守に、司馬儁の子・防は京兆尹(けいちょういん)になった。
司馬防の次男が、司馬懿である。
太守とは郡の民政長官だから、司馬氏は正に名門の家であった。
ちなみに司馬懿の妻となった張春華も、河内郡の出身で、張春華の母方の山氏は後に「竹林の七賢」の1人である山濤(さんとう)を輩出した。
司馬懿は、妻に冷たかった。
張春華の父は張汪で、魏で県令になった人だ。
司馬懿は後年に柏夫人(はくふじん)を愛して、張春華を嫌った。
司馬懿が病気になり張春華が見舞うと、「老いぼれがなぜ、のこのこと来たのか」と罵倒した。
張春華は自殺を図り、息子の司馬師らはショックで食事しなくなった。
驚いた司馬懿は張春華に謝ったが、周囲には「老いぼれの妻は惜しくないが、息子のことを心配したのだ」と漏らした。
張春華は247年に59歳で亡くなった。
司馬懿の父である司馬防は、率直・公平な人で、宴会でも威儀を崩さないまじめな人だった。
晩年は隠居して世間と交際せず、219年に71歳で亡くなった。
『三国志』の曹瞞伝(そうまんでん)によると、若い頃の曹操を洛陽北部都尉(とい、洛陽県の北半分を管轄する警察長官)に推挙したのが、司馬防だった。
つまり曹操にとって司馬防は恩人である。
司馬防は厳格な人で、息子たちは成人してからも父から言われなければ側に寄れず、父と雑談することもなかった。
司馬防の長男が司馬朗で、次男が司馬懿、順に三男以下は司馬孚(ふ)、司馬馗(き)、司馬恂(しゅん)、司馬進、司馬通、司馬敏(びん)である。
彼らは8人兄弟で、全員が字に「達」が付いていたので、「八達」と呼ばれた。
(司馬懿の字は仲達である)
ちなみに晋王朝が誕生すると、八達の子孫たちは宗室(帝室)として特別扱いを受けた。
晋王朝が誕生した時、八達のうち司馬孚だけは存命しており、皇帝となった司馬炎により安平王に封じられた。
余談になるが、北宋時代に『資治通鑑』(しじつがん)を編集した司馬光は、司馬孚の子孫を称している。
司馬朗は、司馬懿の8歳年上で、司馬家の当主を継いだが、217年に47歳で亡くなった。
その後に司馬懿が当主となった。
190年に董卓が献帝を洛陽から長安に移した時、(京兆尹の)司馬防は献帝に随行した。
この時、20歳の司馬朗は家族を連れて郷里の河内郡温県に帰ったが、董卓軍と反董卓軍の戦争が起きると分かっていたため、郷里の人々に疎開するよう説いた。
しかし聞く人は少なく、司馬朗らだけが疎開した。
戦争が一段落した後に司馬朗が郷里に戻ったところ、兵士の掠奪にあい2人に1人が死んでいた。
その後、司馬朗は曹操の公府に辟召(へきしょう)された。
(※辟召とは、人材を呼び出して仕官させる事である)
曹操が丞相になると、司馬朗は丞相府の主簿(総務部長)に任命され、内政で活躍した。
司馬朗は兗州刺史になり、217年の孫権討伐の戦争に参加したが、陣中で病没した。
司馬懿は179年の生まれで、これは黄巾の乱が起きる5年前である。
晋朝の史書『晋書』には、最初に司馬懿の伝記がある。
司馬懿は皇帝にはならなかったが、宣帝という称号を、孫の司馬炎(晋の最初の皇帝)が追贈した。
司馬朗(司馬懿の兄)と同僚だった崔琰(さいえん)は、「君の弟は聡明で誠実で決断力がある。とても君は及ばない」と話したという。
司馬懿が23歳の時、曹操は荀彧の推薦で司馬懿を辟召した。
ところが司馬懿は、関節リューマチを口実に断わった。
兄がすでに出仕していたので遠慮したのだろう。
208年に曹操は、官位が司空から丞相に上がった。
この時にまた司馬懿を辟召したが、今度は司馬懿は応じた。
司馬懿は曹操の参謀をしつつ、曹操の嫡子・曹丕の世話役もこなした。
215年に曹操が漢中の張魯を降した時、司馬懿は続けて蜀の劉備も討伐する事を進言した。
だが曹操に採用せず引き上げた。
(2025年2月18、22日に作成)