タイトル蜀漢と戦う司馬懿、諸葛亮の北伐

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

司馬懿は曹丕の世話役として働き、曹丕の信頼を得ていった。
その結果、陳羣(ちんぐん)、呉質、朱鑠(しゅしゃく)と共に、曹丕の「四友」(しゆう)となった。

220年1月に曹操が死去すると、曹丕が魏王の爵位と丞相の官位を受け継いだ。

すぐに司馬懿は、丞相府(曹丕の政府)の長史(ちょうし、幕僚長)に昇進した。このとき司馬懿は42歳だった。

220年10月に曹丕は、漢王朝の献帝から禅譲されて皇帝になり、ここに魏王朝が始まった。 (後漢の滅亡)

221年8月に、魏に臣従する孫権は呉王に封じられた。
だか同年10月に孫権は、独自の年号を使い始めて、自立していった。

魏朝の文帝(曹丕)の時代(220~26年)は、司馬懿は尚書台で陳羣と共に政治を担った。なお陳羣のほうが司馬懿よりも一歩先んじて出世していた。

文帝が呉や蜀へ親征する時は、陳羣が付きそって補佐し、司馬懿は後方に残留して政務をした。

226年5月16日に曹丕が重病で死期を悟った時、曹真、曹休、陳羣、司馬懿の4人が後事を託された。

翌17日に曹丕は40歳で亡くなった。

すぐに皇太子に立てられたばかりの曹叡が後を継いだ。(明帝の即位)

曹叡は即位すると、直後の226年6月に、陳羣を除く3人(曹真、曹休、司馬懿)を地方に転出させた。

曹休は対呉のため寿春に、曹真は対蜀のため長安に、司馬懿は呉・蜀と接する荊州・宛県に赴任した。

曹叡が即位した時、(荊州の)新城太守である孟達は蜀への寝返りを考えていた。

孟達は、魏の西南方面の守りを任されており、呉・蜀との国境という最前線にいた。

なお彼の父・孟他(もうた)は、後漢の霊帝の時に宦官の趙譲に取り入って、涼州刺史にしてもらった人だ。

孟達は元々は劉璋に仕えていたが、早くから劉備に乗り替えて、劉備が益州(蜀)を奪うと宜都郡(ぎとぐん)の太守に任命された。

219年に劉備軍が漢中を攻め取った際、孟達は北上して房陵郡を攻め、劉封の指揮下に入って上庸部(じょうようぐん)を攻めて太守の申耽 (しんたん)を捕えた。

しかし同年に関羽が魏領を攻めた時、関羽から援軍を頼まれたのに出さず、関羽が敗死する一因をつくった。

220年に孟達は、関羽敗死の責任を問われることや、劉封(劉備の養子)と不和になっていたことから、劉備に訣別の手紙を送って魏に寝返った。

孟達の投降を曹丕はいたく喜び、房陵・上庸・西城の3郡を合わせて新設した新城郡の太守に孟達を任命した。

孟達は自立心の強い男なので、司馬懿らは「孟達は信用できない」と何度か諫言したが、曹丕は聞き入れなかった。

曹丕が亡くなると、蜀の諸葛亮が孟達に密書を送って、蜀に寝返るよう誘った。

誘いに乗り孟達が寝返ると、諸葛亮は後戻りさせないために、孟達と仲の悪い魏興太守・申儀にこの件を漏らし、申儀が洛陽(魏の首都)に報告するよう仕向けた。

227年12月に孟達の寝返りが洛陽に報告されると、司馬懿は荊州の地理に詳しい州泰(しゅうたい)に先導させて急いで宛県から進軍し、孟達のいる上庸城に攻め寄せた。

孟達は魏軍が攻めてくるまで1ヵ月はかかると見ていたが、司馬懿軍はわずか8日でやって来た。

司馬懿は八方から上庸城を攻めて、228年1月に陥落させた。
孟達は処刑され、首は洛陽に送られた。

司馬懿は、孟達討伐で捕虜にした1万人余りを宛県に連行し、孟達の部下たち7千の家を幽州に強制移住させた。

さらに独立心の強い魏興太守・申儀を、呼び寄せて逮捕した。

こうして司馬懿は、荊州・西部の新城郡と魏興郡を掌握した。

蜀漢の丞相である諸葛亮は、225年に南征を行い、「南中」(現在の雲南省と貴州省)に住む非漢民族たちを討伐して従わせた。

こうして後顧の憂いをなくすと、諸葛亮は227年に北伐(魏への侵攻作戦)を行うと決め「出師表」(すいしのひょう)を発表した。

諸葛亮は、自らが漢中(魏との国境)に赴き、かつて張魯が拠点としていた陽平関に丞相府を置いた。
なおここは、近くに定軍山もある。

諸葛亮はここを拠点にして、数次の北伐を行っていく。

ちなみに諸葛亮の後継者となった蒋琬、費禕、姜維も、同じく漢中に軍を率いて駐留し、大将軍府を開いている。

かつて劉邦(漢朝をひらいた人)は、漢中から北上して関中を攻め、そこから東の中原に出て項羽と天下取りを争った。

諸葛亮は同じことを目指したのだが、関中に行くには桟道(さんどう)を通るルートと、いったん北西に行って隴西(ろうせい)に入り、そこから渭水(いすい)沿いに東に進むルートがあった。

なお漢中と関中の間には秦嶺山脈があり、両者を結ぶ桟道はいくつもあって、東から順に「子午道」、「駱谷道(らくこくどう)」、「褒斜道(ほうやどう)」、「故道(陳倉道)」があった。

また漢中から隴西に行く道もいくつかあり、途中の祁山(きざん)には漢の時代に城が築かれていた。

228年春の第一次北伐では、魏延が子午谷(子午道)を通って一気に長安を攻める事を進言した。だが諸葛亮はこれを退けた。

諸葛亮は、魏延らを率いて祁山を攻め、占拠した。
これを見て、祁山の北にある天水郡、南安郡、安定郡が蜀に寝返った。

魏は、曹真が5万の兵を率いて出動し、明帝(曹叡)も長安に進駐した。

曹真は、蜀の別働隊として褒斜道を攻めてきた趙雲・鄧芝軍と郿県(びけん)で戦い、祁山には張郃を派遣した。

張郃は、街亭(祁山の北東にある)で馬謖軍に完勝した。

さらに魏軍は、雍州刺史の郭淮(かくわい)が隴西(天水郡など)を攻撃した。
諸葛亮(蜀軍)は撤退を決断した。

228年12月の第二次北伐では、故道(陳倉道)から蜀軍は進み、陳倉城を攻めた。

だが守将の郝昭(かくしょう)らがよく守り、費曜の率いる援軍も来たので、糧秣が底をついた蜀軍は撤退した。

229年春の第三次北伐は、陳式(ちんしき)が武都郡と陰平郡を攻撃した。

諸葛亮自身は建威(祁山の少し南)を攻め、郭淮は撤退した。

蜀は武都郡と陰平郡を回復し、そこに住む氐族(ていぞく)と羌族を手なづけた。

相次ぐ蜀の北伐に対し、230年7月に魏は蜀を攻めるため、曹真、張郃、司馬懿らに出動させた。
しかし長雨が続いたので魏軍は撤退した。

同年に蜀は、魏延と呉壱(ごいつ)が羌中に進軍し、費曜・郭淮軍を破った。

231年の第四次北伐では、2月に諸葛亮は祁山を攻め、鮮卑(少数民族の1つ)の軻比能 (かひのう)を味方につけた。

魏の明帝(曹叡)は、曹真が3月に死去したので、司馬懿に出陣を命じた。

司馬懿は費曜と戴陵(たいりょう)に上邽(じょうけい)を守らせ、自らは祁山の救出に向かった。

司馬懿は持久戦を採り、6月に蜀軍は食糧が尽きて退却した。

司馬懿は張郃に追撃を命じたが、追撃中に張郃は矢傷を負い、死亡した。

234年の第五次北伐では、諸葛亮が率いる蜀軍は褒斜道から攻めて、五丈原に布陣した。

対する魏は、長安に駐留していた司馬懿が出動して、蜀軍と対峙した。

この時、魏の明帝は呉と戦っており、明帝は「自重して守り続けろ」と司馬懿に命じて いた。
だから司馬懿は、諸葛亮が挑発しても動かなかった。

司馬懿が焦れて動こうとした際、目付(軍師)として派遣されていた辛毗(しんぴ)が軍門に仁王立ちして、立ちはだかっている。

蜀軍と魏軍のにらみ合いは100日以上も続いたが、諸葛亮は病発して8月に陣中で死去した。

蜀軍が撤退を始めると、司馬懿は追撃を命じたが、深追いはさせなかった。

この後238年に入るまで、司馬懿は長安に留まり対蜀の守りを担当した。

(2025年2月22&24日に作成)


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