タイトル司馬懿の公孫氏討伐
明帝の病死と権力闘争

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

後漢時代の190年に、公孫度(こうそんたく)が遼東郡の太守に任命された。
遼東郡は、中国の最北東にある地だ。

公孫度はそこで力を付けていき、隣国の朝鮮にも勢力を築く軍閥に成長していった。

204年に公孫度が死ぬと、息子の公孫康(こうそんこう)が後を継いだ。

207年に曹操が烏桓(少数民族の1つ)を討伐したとき、烏桓の速僕丸(そくぼくがん)や、烏桓に身を寄せていた袁尚と袁煕(袁紹の息子たち)は、公孫康の所に逃げて来た。

公孫康は彼らを殺して首を曹操に送ったので、その功績で左将軍に昇進した。

公孫康が亡くなると、部下たちは弟の公孫恭(こうそんきょう)を擁立して後継ぎにした。

だが公孫恭は病気でインポテンツとなったことから、228年に甥の公孫淵(公孫康の子)に政権を奪われた。

公孫氏は後漢、それに続く魏に臣従していたが、呉とも通じていた。
だが233年に、呉の孫権が公孫淵を燕王に任命したところ、公孫淵はその使者を斬って首を魏の明帝に送った。

明帝はこれを褒めて、公孫淵を大司馬に昇進させた。

魏は、公孫淵の兄である公孫晃(こうそんこう)を首都・洛陽で人質に取っていたが、237年に公孫淵も洛陽に徴召(ちょうしょう)した。

公孫淵がこれを拒否したところ、幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)が攻めてきた。

公孫淵はこれを撃退し、独自の元号を用い始め、魏からの自立を明らかにした。

238年1月に司馬懿は、遼東郡の公孫氏を討伐するよう、魏の明帝(曹叡)から命じられた。

この時、司馬懿は60歳だった。

司馬懿は、牛金や胡遵(こじゅん)といった将軍を率いて出陣した。

238年6月に司馬懿軍は、敵地である遼水に到着した。

公孫淵は、部下の卑衍(ひえん)と楊祚(ようそ)に長い塹壕を作らせて、守りを固めていた。

魏軍の将たちは正面突破を説いたが、司馬懿は「敵の大軍が塹壕で守っているということは、本拠の襄平県城は空っぽのはずだ。ただちに襄平県城に向かえば勝てる」と言い、実行した。

追ってきた卑衍らの軍と途中で戦闘になったが撃破し、襄平県城を包囲した。

8月に襄平県城は落ちて、逃げた公孫淵は司馬懿軍に追いつかれて殺された。

司馬懿は襄平県城に入ると、15歳以上の男子を7千人以上も殺した。
さらに官吏を2千人余りも殺した。

公孫氏の支配下にあった遼東・帯方・楽浪・玄菟(げんと)の4郡は、こうして魏の版図に入った。

なお公孫氏が全滅した結果、239年に邪馬台国の卑弥呼は、帯方郡を介して魏に朝貢している。
おそらくそれまでは公孫氏に朝貢していたはずだ。

司馬懿が凱旋する途中で、洛陽では明帝が危篤になった。

238年12月8日に明帝は重病となったが、彼は24日に寵愛する郭夫人を急きょ皇后に指名した。
237年に毛皇后が亡くなってから、皇后は空位になっていた。

同じ24日に明帝は、曹宇、曹爽、曹肇(そうちょう)、夏侯献(かこうけん)、秦朗(しんろう)の5人を、後継ぎの輔佐役に指名した。

この5人はいずれも曹氏とつながりの深い人である。

曹宇は、曹操の子で、明帝の幼馴染みだった人。

曹爽は曹真の子で、曹肇は曹休の子である。

ちなみに曹真は、曹氏と血のつながりはないが、父親の秦邵(しんしょう)が曹操の同志で、秦邵の死後に曹操の養子となった人。

夏侯献は、曹氏の準宗族といえる夏侯氏の人。

秦朗は、母が曹操の愛人になったことで、曹操から可愛がられた人。

上の5人が明帝から後事を託されたのだが、わずか3日後の12月27日に変更された。

中書監の劉放と中書令の孫資は、文帝(曹丕)と明帝の側近として長く機密に与かってきたが、曹宇、曹肇、夏侯献、秦朗と仲が悪かった。
そこで明帝に曹宇ら4人を補佐役から外し、曹爽と司馬懿を補佐役にするよう求めた。

病気で意識がはっきりしない明帝は、劉放と孫資の意見に同意した。

劉放と孫資が退室すると、今度は曹肇が明帝に訴えて、その意見に明帝は同意した。

これを知った劉放と孫資は、再び明帝を説得し、明帝に命令書を書かせようとした。
明帝は「病気で書けない」と断ったが、2人は強引に手をとって書かせた。

この結果、曹宇、曹肇、夏侯献、秦朗は失脚することになった。

最終的に曹爽と司馬懿が次の皇帝の補佐役に決まったわけだが、劉放と孫資の暗躍は裏で曹爽と司馬懿が糸を引いていた可能性もある。

上記の明帝の病室における暗闘の最中、司馬懿は遼東遠征(公孫氏討伐)から洛陽に帰ってきた。

暗闘を反映してか司馬懿に対しては、「洛陽に入らず長安に戻れ」という命令書と、「急いで戻り私(明帝)に会え」という、2つの命令書が届いていた。

司馬懿は急いで洛陽に入り、239年1月1日に明帝に会った。

明帝は「曹爽と力を合わせて息子を補佐してくれ」と司馬懿に言い、8歳の曹芳と9歳の曹詢を呼んだ。

明帝は男子がなく、曹芳(そうほう)と曹詢(そうじゅん)を密かに育てていた。
この子供2人は、曹楷(そうかい、曹操の孫で曹彰の息子)の子とも言われたが、詳細は不明である。

明帝は曹芳を指さして、「これが後継ぎだ」と司馬懿に言った。

(※皇帝の後継ぎが隠された状態で育てられて素性が知れないのも、皇帝の死の直前に後継ぎが決まるのも、異常である。
何か裏事情があるのは間違いなく、謀略的な臭いがする。)

司馬懿が明帝に会い遺言を聞いたこの日(239年1月1日)に、曹芳が皇太子に立てられ、明帝は死去した。
明帝の享年は34とも36ともいう。

明帝(曹叡)は吃音(きつおん)の癖があり、口数が少なかった。
即位後は独裁的で、劉放と孫資を重用し、曹氏や曹氏と血縁のある者を重用してきた。

また明帝は、洛陽の宮殿を造るなど、大がかりな土木工事を連発して民を苦しめていた。

曹芳が即位すると、司馬懿は三公の太尉から上公の太傅に昇進した。

なお曹芳は、後に皇帝の椅子から降ろされたので、「廃帝」と呼ばれている。

(2025年2月24日に作成)


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