(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
239年1月に曹芳が8歳で魏王朝の皇帝になった際、直前の権力闘争の結果、曹爽と司馬懿が曹芳の後見人となった。
つまり曹爽と司馬懿が、最高権力者の地位に就いた。
240年代の前半は、司馬懿は呉との戦いに注力した。
241年に呉が攻めてきた際は、荊州の樊城の救援に赴いた。
243年には寿春を狙う呉将・諸葛恪に対応して、舒県(じょけん)に出張した。
他にも司馬懿は、鄧艾の要望書『済河論』に基づいて、軍屯の設置などを行った。
一方、曹爽は蜀との戦いに注力し、244年3月に蜀に遠征した。
この遠征は、鄧颺(とうよう)や李勝が勧めたもので、司馬懿は反対だった。
曹爽は10万人以上の兵を率いて出陣し、長安で夏侯玄と合流し、駱谷道から蜀の漢中に攻め入った。
蜀側は、涪県(ふけん)から蒋琬が、成都から費禕が兵を率いて漢中に救援に入った。
曹爽軍は5月に撤退を始めたが、費禕の追撃で散々に打ち破られ、多くの兵を失った。
なおこの戦役は、司馬懿の次男・司馬昭が夏侯玄の副官として参加していた。
曹爽は、自分の弟である曹羲(そうぎ)、曹訓、曹彦(そうげん)を要職につけた。
他にも「尚書台の三狗(さんく)」とあだ名された、丁謐(ていひつ)、鄧颺、何晏(かあん)の3人や、畢軌(ひっき)や李勝を重用した。
丁謐は、父の丁斐(ていひ)が曹操と同郷で、丁謐は曹爽に可愛がられた。
何晏は、後漢末期に権力を握った何進の孫で、母の尹氏(いんし)は曹操の愛人となり、何晏は曹操に養われた。
また何晏は、曹操の娘である金郷公主を妻にした。
何晏は、賈充や裴秀(はいしゅう)らを推挙した人で、「正始の音」 (せいしのいん)と呼ばれる当時の清談(評論家と哲学者の集団)の中心人物だった。
正始の音の議論をまとめたものに、鍾会の書いた『才性四本論』があった。
何晏は、老子の解釈書として『道論』と『徳論』を、論語の注釈書として『論語集解』(ろんごしっかい) を書いた。
正始の音の1人である王弼(おうひつ)は、『老子注』と『周易注』を書いた。
他にも、正始の音の1人である夏侯玄は、当時に盛んに議論された肉刑復活について考察し、九品官人法を批判した。
曹爽と司馬懿は、240年代の後半になると事あるごとに対立するようになった。
247年4月に、司馬懿の妻・張春華が死去した。
すると翌月に司馬懿は病気を理由に出仕しなくなった。
248年の冬に、曹爽派の李勝は荊州刺史に任命されたが、暇乞いの挨拶をしに司馬懿の家に行った。
この時、司馬懿は演技で重病をよそおい、まず2人の侍女に支えられて登場した。
そして食事も上手くできない様子を見せた。
司馬懿は、「私が死ぬのは時間の問題だ」と話し、「君は并州に赴任するのか、もう会うこともあるまい」と言った。
李勝は「私が赴任するのは并州ではなく荊州です」と訂正したが、司馬懿は「君は并州に赴任するのだな」とか「頭がぼんやりする」と、わざと言った。
すっかり騙された李勝は、この事を曹爽に報告し、「司馬公はようやく息をしている状態なので、心配に及びません」と説いた。
こうして曹爽たちは警戒を解いた。
だが司馬懿はクーデター計画を進めていた。
249年の1月6日に曹芳(廃帝)は、明帝(曹叡、前皇帝)の墓参りをするため洛陽を出た。
これに曹爽らも同行した。
この機会に、司馬懿はクーデターを決行した。
司馬懿は、郭太后(曹叡の妻)に曹爽らの解任を求めて、裁可を得た。
司馬懿は禁軍を掌握し、曹芳の許に曹爽を弾劾する書を送った。
司馬懿は洛陽城内を制圧したが、帳下守督の厳世は納得できず、司馬懿を弓で射ようとした。だが結局は発射しなかった。
一方、司馬懿の弾劾書を曹芳に届く前に見た曹爽は、それを握り潰し、曹芳を囲い込んで兵士を集めた。
だが禁軍を握った司馬懿に対して、曹爽の兵力はゼロに近かった。
大司農の桓範は、「皇帝(曹芳)を奉じて許昌に行き、四方に檄を飛ばして兵を集めるべきです」と曹爽に助言した。
桓範は曹羲(曹爽の弟)にも、「許昌には2日もかからずに行けるし、あそこには武器などもあります」と助言した。
しかし曹爽兄弟はこれを採用しなかった。
司馬懿は、曹爽が信頼している尹大目(いんたいもく)を使者にして、「曹爽の処分は免官だけだ」と伝えさせた。
さらに蒋済、許允、陳泰という政府高官たちにも、「曹爽は免官だけで済む」と伝えさせた。
これを信じた曹爽は、「財産を没収されることなく、金持ちの老人として生きていけそうだな」と言って、降伏することに決めた。
こうして司馬懿は、わずか1日で戦争なしにクーデターを成功させた。
すべての官職を外された曹爽は、洛陽に戻ると監視下に置かれた。
司馬懿のクーデターからわずか4日後の1月10日、曹爽とその一派は一斉に逮捕された。
逮捕の理由は、宦官の張当が曹爽らのクーデターを自供した、というものだった。
曹爽とその兄弟、何晏、鄧颺、丁謐、畢軌、李勝、桓範、張当らは、三族(父母、妻子、兄弟姉妹)ともども公開処刑で殺された。
曹爽らのクーデター計画は、司馬懿のでっちあげが濃厚である。
もし彼らがクーデターを考えていたなら、丸腰でいたことは考えられないからだ。
張当に拷問して、狙い通りの自供をさせたのだろう。
曹爽らを殺したことで、司馬懿は並ぶ者のいない権力者となった。
彼はこの時71歳だった。
司馬懿のクーデターは、郭太后が大きな役割を果たした。
司馬懿は、郭太后の令を拠り所にしてクーデターを行った。
郭太后は、もともとは西平郡の豪族・郭氏の人で、黄初年間(220~26年)に郭氏が魏朝に反乱して負けると、彼女は奴隷に落とされて明帝の愛人にされた。
明帝(曹叡)は死ぬ直前に、彼女を皇后に指名した。
司馬懿は、彼女に取り入って利用したのである。
(2025年2月25~26日に作成)