タイトル王淩・曹彪のクーデター計画
司馬懿の死去

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

249年1月に司馬懿はクーデターを成功させ、政敵たちを皆殺しにした。

その後に彼は、病気であまり動けなくなった。
そのため魏朝の廃帝(曹芳)は、会いに行って意見を聞くようになった。

この時期の魏の政治は、司馬懿の意向で決まっていたようだ。

そんな中、淮南の地で、楚王・曹彪 (そうひょう)を皇帝に擁立するクーデター計画が練られた。

曹彪は曹操の子で、クーデター計画の主謀者は王淩(おうりょう)と令狐愚(れいこぐ)であった。

王淩は、後漢末に董卓を謀殺した王允の甥で、魏朝では兗州や青州の刺史を歴任し、魏の東南部における対呉の総司令官に就いていた。

令狐愚は、王淩の姉妹の子で、本名は浚(しゅん)だったが、文帝から「お前は愚かだな」 と叱責されたのに因んで愚に改名した。

令狐愚は曹爽に見込まれて、兗州刺史になっていた。

王淩と令狐愚は、曹彪を皇帝にして都は許昌に定めようと考えた。

ところが249年9月に令狐愚が病死し、計画は中止された。

251年1月に王淩は、呉の討伐を提案したが、司馬懿は許可しなかった。

王淩は、令孤愚の後任の兗州刺史に使者を送り、曹彪を擁立する計画をもちかけた。

兗州刺史はこれを司馬懿に報告したので、司馬懿は4月(5月?)に自ら軍を率いて王淩討伐に出た。

司馬懿は出陣すると同時に、罪を赦すとの文書を王淩に送り、王淩の子で尚書の職にいる王広にも父を説得する手紙を書かせた。

これを受けて王淩は、単身で司馬懿に会いに行き、反省の態度を見せたが、司馬懿は慰労して洛陽に送還した。

王淩は洛陽に護送される途中で、鴆毒(ちんどく、毒薬)を飲んで自殺した。

自殺の理由は、単身で司馬懿に会いに行った時、司馬懿がすぐに会おうとせず、疑っているのが明らかで、その態度に絶望したからという。

王淩に担がれた曹彪は、「自殺しろ」と曹芳から手紙で命じられ、自殺した。

この事件の後、同様の事件が起きないように、曹氏の者たちは鄴の都に集められ、監視下に置かれた。

司馬懿は251年6月に重病になり、同年8月5日に73歳で亡くなった。

後に晋王朝が生まれると、司馬懿は「宣皇帝」と追尊(ついそん)された。

司馬懿は、心が「猜忌」(妬みと憎しみ)の塊で、権謀術数が多かった。

曹操が「司馬懿には狼顧(ろうこ)の相がある」と聞き、司馬懿に自分の前を歩かせて振り返らせたところ、体はそのままで顔だけ真後ろを向いたというエピソードがある。

234年に司馬懿の長男・司馬師の妻である夏侯徽(かこうき)は、司馬懿によって毒殺された。

その理由は、司馬懿に王朝簒奪の野望があるのを知ったためという。
夏侯徽は、兄は夏候玄で、母は曹操の娘だった。

司馬懿は、魏王朝の成立過程を見知っており、魏の皇帝が絶対の存在ではないと分かっていた。

彼は自分の名声が高まるにつれて曹氏と距離を取り、曹氏を政界から排除していった。

司馬懿の「王朝簒奪の志」は、息子の司馬師と司馬昭に受け継がれた。

司馬懿が死ぬと、その日のうちに長男の司馬師(44歳)が撫軍大将軍と録尚書事の官職に就いて、後を継いだ。

252年1月2日に司馬師は大将軍に昇進したが、侍中と持節にも任命された。

司馬師は、初めは夏侯徽を妻にしたが、前述したとおり234年に司馬懿が夏侯徽を毒殺した。

次に司馬師は、文帝の側近の呉質の娘と結婚したが、呉質が「単家」(たんか、普通の家の出身)のため離別となった。

次は名族・羊氏の娘である、羊徽瑜(ようきゆ)を妻にした。

司馬師は、父の指示で政略結婚を続けたのである。

また249年の司馬懿のクーデターの際は、司馬師は秘かに養成していた私兵3千人を使って父を助けた。

(2025年2月26日に作成)


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