(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
252年11月に魏朝(曹魏)を支配する司馬師は、呉への侵攻を命じた。
王昶(おうちょう)、胡遵(こじゅん)、毌丘倹(かんきゅうけん)、諸葛誕らが出陣を命じられた。
だが胡遵と諸葛誕の率いる7万人の軍が、12月に東関の戦いで4万人の諸葛恪の軍に大敗した。
この時に司馬師は、「この敗戦は私の過失である。諸将に何の罪があろうか」と言って、監軍の任にあたった弟・司馬昭の爵位を削っただけで済ました。
この戦後処理で人心を得たという。
254年2月22日に、中書令の李豊が張緝(ちょうしゅう)らと共に、司馬師を失脚させて夏侯玄に代えるクーデターを計画している事が発覚した。
李豊は、息子の李韜(りとう)が明帝(曹叡、前皇帝)の娘・斉長公主(せいちょうこうしゅ)と結婚していた。
張緝は、皇帝(廃帝)の皇后・張氏の父だが、名誉職で実権のない光禄大夫(こうろくたいふ)に任命されたことに不満を持っていた。
夏侯玄は、司馬懿によって左遷され不遇をかこっていたが、李豊は高く買っていた。
李豊は中書令になって以来、たびたび廃帝(曹芳)に召されて話し合っていた。
これを危険視した司馬師は、李豊を連行して詰問し、部下に突き殺させた。
司馬師は、李韜、夏侯玄、張緝らを逮捕し、延尉の鍾毓(しょういく)に取り調べさせ、司馬師を殺して夏侯玄に代える陰謀を供述させた。
22日のうちに夏侯玄らは三族ともども処刑された。
254年9月19日に、郭太后(曹叡の妻)が「廃帝は堕落しており、皇帝として失格である」との令を出した。
これは司馬師が圧力をかけて出させたものだが、司馬師は涙ながらに「皇太后様はこのように命じている」と朝臣たちに告げた。
朝臣たちは色を失ったが司馬師に逆らえなかった。
司馬師は、司馬孚ら46名と連名で、廃帝(曹芳)の退位を求める文書を郭太后に提出した。
その結果、曹芳は朝臣の見送る中で洛陽を追われた。
曹芳はこの時23歳で、274年に43歳で亡くなった。
司馬師は次の皇帝は曹拠にするつもりだったが、 郭太后は曹髦(そうぼう)を推した。
司馬師は皇帝を追い出した引け目があるので折れて、曹髦が新たな皇帝に決まった。
曹髦は召されて10月5日に洛陽城に入り即位した。14歳だった。(後廃帝の即位)
司馬師の行った強引な皇帝の交代に対し、翌255年1月に寿春で毌丘倹と文欽が反乱した。
毌丘倹は、245年に高句麗・粛慎(しゅくしん)に遠征するなど、軍人として出世した人で、東関の戦いの後に諸葛誕と交替して寿春に駐屯していた。
文欽は揚州刺史で、毌丘倹と協力して呉との国境を守っていた。
毌丘倹と文欽は、郭太后の令を偽作し、司馬師の11の罪状を記した文書も発表した。。
この文書で興味深いのは、指弾の対象は司馬師のみで、司馬昭が代わるべきと述べ、司馬孚や司馬望も要職に就けるべきと述べている事だ。
毌丘倹と文欽は、挙兵すると呉に子供を人質として送り、救援を求めた。
2人は軍を率いて寿春の北西にある項県に進み、毌丘倹は項城を守り、文欽は遊撃と、役割分担した。
司馬師は目のコブを切開したばかりで治っていなかったが、自ら出征することにし、1月25日に10余万の兵を率いて洛陽を出発した。
司馬師は荊州刺史の王基に命じて、食料倉庫のある南頓県を占拠させた。
さらに諸葛誕と胡遵に、寿春を攻略させた。
毌丘倹と文欽の軍は、本拠地の寿春を攻められ、帰ることができなくなった。
司馬師は鄧艾に命じて、楽嘉においてわざとスキを見せるようにさせ、文欽に攻めさせた。
夜襲を仕かける文欽軍に対し、ちょうど楽嘉に到着した司馬師軍が鉢合い戦闘になった。
文欽の子・文鴦(ぶんおう)が獅子奮迅の働きをしたが、文欽軍が負けて退却した。
これを知った毌丘倹は項城を逃げ出したが、草むらに潜むところを射殺された。
文欽とは文鴦は呉に亡命した。
司馬師は楽嘉の戦いで文鴦が猛攻してきた時、驚いたことで治療中の目が飛び出してしまった。
これを隠したまま戦い、許昌に帰ったが、病気は悪化した。
司馬師は軍を買充に任せて、弟の司馬昭を呼んで後事を託した。
そして閏正月28日に死去した。47歳だった。
司馬昭は、211年生まれで、司馬師の3歳年下である。
彼は司馬師政権の時期は、将軍として長安や許昌を守っていた。
後廃帝(こうはいてい)は司馬師の死を知ると、司馬昭に許昌に留まるよう命じ、尚書の傅嘏(ふか)に軍を洛陽に帰還させるよう命じた。
司馬氏の専権を苦々しく思っていた郭太后と後廃帝は、禁軍(洛陽軍)を司馬昭から離そうとしたのだが、傅嘏や鍾会は司馬昭の側についた。
司馬昭は皇帝の命令を無視し、禁軍を率いて洛陽の南に駐屯した。
結局、郭太后と後廃帝が屈して、詔勅により司馬昭は司馬師と同じ肩書・役職を継いだ。
(2025年3月3日に作成)