(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
257年5月5日に、寿春でまたも魏朝(曹魏)への反乱が起き、諸葛誕が挙兵した。
諸葛誕は、寿春で毌丘倹・文欽の反乱があった時、予州の軍を率いて呉軍が到着(救援)する前に寿春城を奪い、その功で征東大将軍になり、以後は寿春の守りを任されていた。
諸葛誕の挙兵の前、買充(※司馬昭の側近)が彼を訪ねて、「洛陽の賢者は皆、(魏の皇帝の)司馬昭様への禅譲を願っています。あなたはどうですか?」 と訊いた。
諸葛誕は、「君は賈逵(かき)の子で、父子2代にわたり魏の恩を受けながら、どうして社稷を他人に渡すのを望むのだ。もしも洛陽で変難があれば私は死を賭すつもりだ」と答えた。
買充はこれを司馬昭に報告したので、司馬昭は諸葛誕を司空に任命して洛陽に呼び戻そうとした。
諸葛誕はここに至り挙兵を決め、寿春にいる揚州刺史・楽綝(がくりん)を殺し、息子・諸葛靚(しょかつせい)を人質として呉に送り、呉軍の救援を求めた。
司馬昭は、後廃帝(魏の皇帝、曹髦)と郭太后を連れて、26万人の大軍で諸葛誕の討伐に出た。
皇帝と太后を司馬昭が連行したのは、留守中に洛陽で2人を担ぐクーデターが起きるのを恐れたからである。
司馬昭は2人を項県に置いて、自らは陳泰(陳羣の子)、王基、陳騫(ちんけん)らを率いて寿春城を攻めた。
諸葛誕から救援を要請された呉は、全懌(せんえき)、唐咨(とうし)、文欽(魏から逃げて来た将軍)に3万の兵を率いて寿春城に加勢させた。
呉軍は、魏軍の包囲が完成する前に寿春城に入った。
さらなる呉軍の増援も来たが、魏の石苞や州泰の軍が撃退した。
魏軍は持久戦を採り、11月になると寿春城は食糧不足になった。
翌258年1月になると、寿春城では内輪もめが起き、諸葛誕は文欽を殺してしまった。
このため文欽の子である文鴦(ぶんおう)と文虎(ぶんこ)は、城を出て魏軍に投降した。
258年2月に魏軍は寿春城をおとし、逃げようとした諸葛誕は胡奮の軍に斬り殺された。
諸葛誕の三族は皆殺しになり、諸葛誕の兵の数百人も降伏しないので斬り殺された。
投降した文鴦と、生け捕りにされた唐咨は、赦されて魏の将軍になった。
捕虜になった呉兵は、殺すべきとの意見もあったが、司馬昭は呉への帰還を許した。
この寛大な処置により、司馬昭は徳のある人と見られるようになった。
余談だが、人質として呉に送られた諸葛靚は、後に晋朝に仕え、その子・諸葛恢は尚書令まで出世している。
戦後、寿春の守りは王基と石苞に任された。
なお石苞は晋の時代になってから、268年に叛心を疑われて解任された。
(2025年3月5日に作成)