(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
魏朝の皇帝・曹髦(後廃帝)は、14歳で即位して以来、ずっと聡明さを見せていた。
学問好きの彼は、司馬望、王沈、裴秀、鍾会らと会談しては、議論していた。
曹髦は、最高権力者の司馬昭を除こうとし、260年5月6日の夜に王沈、王経、王業の3人に心を打ち明けた。
曹髦は、「司馬昭が私を廃位して魏王朝を簒奪しようと考えているが、私は甘受できない。司馬昭を討伐しようと思う」と告げた。
曹髦はこの決意を郭太后にも告げた。
王沈と王業はこの事を司馬昭に話したので、司馬昭は守りを固めた。
翌7日の朝、曹髦は数百人を率いて宮殿を出て、司馬昭のいる大将軍府を目指した。
中護軍の賈充が迎撃したが、賈充は部下の成済(せいせい)に「今日はどんなことをしても罪に問わない」と断言して、成済に皇帝・曹髦を刺殺させた。
同日中に、郭太后の令が出て、「皇帝は郭太后の命を狙ったので、廃位して庶人に降格する。また王経とその家族の逮捕を命じる」と布告された。
王経は曹髦の決意を聞いた時、司馬昭に報告しなかった事で罪人となった。
5月8日、曹髦の死の翌日に、菅璜(そうこう)が新たな皇帝に決まった。
曹璜は曹操の孫で、曹宇の子である。
5月26日に、司馬昭の上奏で成済が皇帝殺しの全責任を負うことが決定した。
成済は承服せず、肌脱ぎになって屋根に登り叫んで抗議したが、弓で射殺された。
6月1日に郭太后の命令で、曹璜は曹奐(そうかん)に改命した。
曹奐は翌日に15歳で、魏の第5代目皇帝に即位した。(元帝の即位)
(2025年3月5日に作成)