(『眞説三國志』坂口和澄著から抜粋
2003年9月後半にノートにとり勉強)
🔵劉備 161~223年
178cmの身長で、手は膝まで届く長さがあり、ふり返ると自分の耳が見えたという異形の人。
涿郡の涿県の生まれ。
前漢の中山靖王・劉勝の子孫といわれるが、真偽は不明である。
家は貧しく、母と共に草鞋(わらじ)やむしろを編んで生計を立てていた。
15歳の時、劉備の才能を見込んだ親戚が金を援助してくれて、涿郡に住む盧植(ロショク)の許で学ぶ。
しかし学問を好まず、犬や馬、音楽を好み、美々しく着飾るのが好きだった。
その一方で、言葉は少なく、人にへりくだり、感情を面に出さず、豪傑と好んで交わったので、若者に人気だった。
184年 黄巾党の乱が起きると、大商人の張世平と蘇雙(ソソウ)に見込まれ、資金を出してもらい討伐のため仲間を集めた。
関羽と張飛は、この頃に仲間に加わった。
校尉の鄒靖(スウセイ)に従って賊を討ち、その功により安喜の尉(警察署長)になる。
その後は、官職に就いては辞めるのをくり返したが、189年の董卓討伐の戦争にも参加したらしい。
192年 盧植の学舎にて同門であり兄事していた公孫瓚の客将になる。
青州刺史・田楷と共に袁紹軍を防ぐ。
やがて平原の相(長官)に任じられたが、身分の低い士人にも分け隔てなく接したため人気が出る。
193年 曹操に攻撃された徐州の陶謙は、田楷に救いを求めた。
劉備は田楷と共に徐州へ行くが、陶謙から4千の兵を与えられたのを機に配下となる。
194年 陶謙は病死し、劉備が後を継ぐ。
196年 袁術と戦っている間に、呂布に下邳(かひ)城を奪われる。
いったん呂布と和睦するが、再び呂布に攻撃されて窮地に陥り、逃げて曹操の許へ身を寄せる。
198年 曹操が呂布を破って捕えた際、殺すように進言し、呂布は処刑される。
曹操は劉備を重用し、左将軍に任じるが、劉備は董承らの曹操を倒すクーデター計画に加わる。
199年 許の都から脱出して、下邳に拠って独立する。
200年 曹操に攻められて敗北し、逃げて袁紹に身を寄せる。
この時に関羽は捕まり、曹操の配下になる。
同年 袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗する。劉備も曹仁に敗れる。
201年 劉備を怖れていた曹操は自ら軍を率いて攻めてくる。
これに大敗した劉備は、今度は荊州を治める劉表に身を寄せる。
その後、危険視され暗殺されそうになったりしながらも、劉表の配下として過ごす。
207年 徐庶の勧めで、諸葛亮孔明を訪問し、配下にする。
この時に諸葛亮は、荊州と益州を奪る事、孫権と組む事、漢室再興を掲げる事を進言し、劉備は採用する。
この時、劉備は47歳、諸葛亮は27歳であった。
208年 曹操が荊州に攻めてくる。
その後、赤壁の戦いに加わり、曹操軍に勝つ。
荊州の半分と長江の南岸を占領する。
209年 孫権の妹と政略結婚する。
210年 荊州のうち呉が持つエリアの借用を呉に申し入れ、許可される。
211年 益州に軍を率いて入る。これは張魯の討伐を益州を治める劉璋が依頼してきたのに応えた形式である。
214年 益州を征服し終える。
219年7月 漢中を征服したので、漢中王を名乗る。
221年 曹丕が帝位についたのに対抗して、蜀漢の皇帝となる。
221年 呉の裏切りで殺された関羽の仇討ちのため、呉に東征する。
222年6月 呉の陸遜に大敗し、白帝城に逃げ帰る。
223年4月 病死する。
死ぬ前に諸葛亮に対して、「息子の劉禅に才があるなら君が補佐し、もし才が無いなら君が国を取るがよい」と遺言する。
🔵関羽 ?~219年
河東郡解県で育つが、亡命して涿郡に移住。
184年 劉備の黄巾討伐軍に参加する。
寝る時に劉備、張飛とベッドを共にするほどの仲の良さとなり、3人は兄弟同然となる。
なお正史では、義兄弟になったとは記されていない。
宴会があると、終日にわたり劉備の側に立ちつくして身辺の警護にあたるなど、艱難をいとわなかった。これは任侠的な結びつきを感じさせる。
200年 曹操軍に敗れて捕まり、曹操の配下になる。曹操は手厚く礼遇した。
同年の官渡の戦いでは、張遼と共に先鋒となり、顔良を斬る。
仲の良い張遼が本心を聞いた時、関羽は「曹操の下に長く留まる気はない」と答えた。
やがて劉備の所在がわかると、曹操から贈られた物に封印をし、手紙で別れを告げて立ち去った。
曹操は追ってはならぬと命じた。
劉備たちが益州に向かう時、関羽は荊州の守りを任される。
214年 ずっと荊州を守っていたが、荊州の総督に任じられる。
219年7月 前将軍に任じられ、荊州における専行権を得る。
219年8月 北上して魏の樊城を攻撃する。于禁を捕らえ、龐悳を斬る。
曹操は遷都を考えるほどだったが、司馬懿と蒋済は「関羽の背後を突くように孫権に勧めましょう。長江南岸の土地を割いて孫権の領有と認めれば動くでしょう」と進言する。
この策は上手くいき、 孫権を味方につけた。
孫権は、江陵の糜芳(ビホウ)と公安の傅士仁が、関羽に軽んじられて不満を持っているのにつけこみ、裏切らせて味方につけた。
219年10月 呉の呂蒙は、関羽の根拠地である江陵を占領する。
219年12月 呉に背後をつかれた関羽の軍は四散し、関羽とその息子・関平は捕えられ斬られる。
程昱らは、「関羽、張飛は1万人の兵に相当する」と評していた。
しかし関羽は、自分の勇名を恃んで猪突猛進し、しばしば兵を失っている。
彼は強情で自尊心が強かった。
🔵張飛 ?~221年
涿郡の琢県出身。(劉備と一緒)
数歳年長の関羽に兄事。
208年 曹操軍の追撃に対し、長阪で20騎をつれて殿軍となり、気迫で曹操軍5千人を退ける。
その後、劉備が荊州を支配してからは南郡を治める。
214 年 孔明、趙雲と益州攻略の救援に行く。
長江をのぼり、江州の厳顔を破る。
215年 巴西に進軍してきた張郃を迎え撃ち、50余日の対陣の後に大勝。
221年 呉との開戦にあたり、1万の兵を率いて閬中(ろうちゅう)より下って江州で落ち合うようにと、劉備に命じられる。
その出発時に、部下に殺され、その首は孫権に献じられた。
張飛は、身分の高い人を敬愛したが、兵士に冷たかった。
そのため劉備から、「刑罰で人を殺しすぎる上に、いつも兵士を鞭で打ち、しかもその兵士を側近として用いている。災いの道である」と戒められていた。
🔵趙雲 ?~229年
208年 当陽で曹操軍に大敗した時、乱軍の中から劉禅と甘夫人を助け出す。
同年 赤壁の戦いの後、桂陽に赴き、元の太守・趙範と交代した。
趙範は自分の兄の美しい未亡人を紹介するが、趙雲は「お前は降伏したが信用できない」として断わる。
219年 長安の曹操が漢中に攻めてきて、大軍で趙雲のいる城に迫った。
趙雲は門を開けさせ、旗を伏せて、音をさせずに待った。
曹操は伏兵を警戒して兵を引いた。これは「空城の計」という。
221年 劉備が呉討伐戦を始める時、誰も反対しなかったが、趙雲のみ反対する。
228年 北伐において、鄧芝と共に別動隊として箕谷へ行く。
馬謖の大敗の後は、後詰めをして見事に兵士と軍需品を運びながら退いた。
🔵黄忠 ?~220年
初めは劉表に仕え、長沙の攸県を守る。
208年に荊州が曹操のものになると、曹操配下の長沙大守・韓玄の配下になる。
208年の末 劉備が荊州南方の諸郡の平定をした際、劉備の配下になる 詳しい経緯は分からない。
212年 成都へ向う益州の攻略戦で活躍する。
218年 劉備の漢中攻撃に参加する。
219年1月 劉備は定軍山に退いて陣をかまえたが、魏軍の隙をうかがっていた黄忠は夏侯淵の本陣が手薄になった一瞬に攻めて、一刀の下に夏候淵を斬り殺す。
219年7月 関羽、張飛、馬超と同格の後将軍に任じられる。
🔵馬超 176~222年
司州生まれ(扶風郡茂陵の出身)。羌族の血が4分の1混じっていた。
父・馬騰は、貧しかったが羌族の鎮圧に手柄を立てて出世していった人。
194年 呂布と李確の争いに乗じて、馬騰は同じ涼州軍閥の韓遂と共に長安を襲撃する。これは失敗した。
馬騰と韓遂は兄弟の縁を結ぶほど親しかった。
しかし後に領地問題で仲がこじれ、馬騰の妻子は韓遂に殺される。
197年 馬騰と韓遂は曹操の仲介で和睦する。
しかしまた不和になる。
208年 馬騰は願い出て許(曹操の本拠地)におもむき、宮中の警護にあたる。
この時、馬超以外の一族の者は皆が馬騰に従い、馬超は留守を守ることに。
211年 曹操は張魯の討伐に乗り出すが、馬超・韓遂らは「自分達も攻められる」と考えて、潼関に進出して立てこもる。
攻めてきた曹操軍に大勝する。
だが曹操が馬超と韓遂を仲違いさせる策に出ると、その後に大敗。馬超は涼州へ逃走した。
212年 曹操は帰還すると、鄴にいる馬騰の一族を皆殺しにする。
馬超は涼州の兵を率いて冀城を陥し、刺史の韋康を殺す。
213年9月 韋康の旧部下らが反旗を翻し、馬超は妻子を殺されて、張魯を頼って落ちてゆく。
その後、何度か張魯に願い出て涼州を攻めるが、成功せず、命をねらわれ、214年に劉備の所へ頼っていく。
221年 張飛と共に蜀の武官の最高位につく。
222年に病死。
🔵諸葛亮 181~234年
207年 劉備の配下になる。
208年 劉備が荊州を奪うと、長沙・桂陽・零陵の3郡の内政に従事。
214年 益州へ救援に行き、劉璋を降した後は、兵士の確保、軍糧の調達など、内政に従事する。
221年 劉備が帝位に即くと、丞相という人臣の最高位に任命される。
法正、劉巴、李厳、伊籍らと共に、「蜀科」と呼ばれる法律を制定する。
同時に人材を抜擢して重用する。
蔣琬、李邵(りしょう)、馬動、宗預、費禕、董允、郭攸之らは、この時に用いられたらしい。
この年の、劉備の呉への東征は止められず。
225年の春 反対を押し切って南征に踏みきる。
228年 第1回目の北伐をする。
呉懿、魏延をさしおいて、馬謖を指揮官にするが大敗。
231年 第4次北伐。祁山に進出するが、李厳のミスで退却。
234年 第5次北伐の途中、五丈原で病死。
🔵龐統 179~214年
荊州・襄陽の出身。若い頃は地味で鈍そうに見えた。
208年 赤壁の戦いの後、地元を治めることになった呉の周瑜の配下になる。
210年 周瑜が病死すると、遺骸につきそって呉に入り、当地の名士と交わる。
その後、荊州全体が劉備のものになると、耒陽(らいよう)の県令になるが、成績が悪く免官に。
魯粛と孔明が、「彼は大器だからもっと重い役につけないといけない」と劉備に忠告。
劉備は龐統に会ってみて、才能を高く評価。やがて孔明と並ぶ軍師中郎将の重職に任命する。
211年 益州の劉璋から張魯討伐の依頼が、劉備に来る。
龐統は、劉備の家臣で一番熱心に益州入りを推める。
益州に進軍し百余日におよぶ宴会になると、その間に劉璋を捕える事を龐統は進言する。
しかし劉備は、「他国に入ったばかりで、また私の恩愛も信義も現れていない」と断わる。
それから1年後に劉備軍は、劉璋の違約を口実に攻め始める。
その際に龐統は、劉備に三つの策を示した。
「上計は、一直線に成都を襲う事。
中計は、水軍の将である楊懐と高沛の油断をつき、その軍を奪って成都に向う事。
下計は、荊州まで一度引いて再考する事。」
劉備は中計を選んだ。
214年 成都近くの雒城で流れ矢に当たり戦死。享年36歳。
🔵糜竺 ?~221年? 大金持ち
初めは徐州の陶謙に仕えていた。
陶謙が病死する際、「後継ぎになれ」との陶謙の遺言を劉備に伝える。
劉備が渋ると、陳登、孔融らと共に説得する。
196年 劉備の領地が呂布に攻められ、劉備の妻子が捕虜になった時、糜竺は自分の妹を劉備の新たな夫人にした。
そして劉備に資金提供した。
軍事は苦手で、外交や内政で働いた。
219年に弟の糜芳が関羽を裏切り呉についた時も、罪に問われず信頼された。
しかしこの件について恥と怒りで221年頃に病死した。
🔵簡雍(かんよう) ?~?
涿郡出身で、若い頃から劉備の知り合いだった。
外交等を任される。
益州の平定時に、昭徳将軍に任命された。
🔵徐庶 ?~230年頃
貧しい家の出で、若い頃は無法者だったが、学問を志して塾に入る。
同郷の石韜(せきとう)と親しくなり、董卓討伐の戦争が始まると一緒に荊州へ難をさけて移住。その地で諸葛亮と親しくなる。
207年頃 新野に駐屯していた劉備を訪ねて、諸葛亮を紹介する。
208年 曹操軍が荊州に攻めてきた際、母が捕まり、曹操の所へ行き仕官する。
その後、右中郎将まで出世した。
🔵馬良 187~222年
荊州の襄陽郡宜城の出身である。
諸葛亮に重用される。
222年 呉への東征の際は、別動隊として少数民族の慰撫に向かった。
この戦争中に戦死。
🔵馬謖 190~228年
諸葛亮に愛され重用される。
228年 第1回目の北伐で、街亭にて諸葛亮の指示に背いて山上に陣取り、汲水路を断たれて大敗する。その責任を取り斬首に。
🔵魏延 ?~234年
219年 魏軍に勝ち漢中を占領した後、漢中太守は張飛が任命されるとの皆の予測を裏切り、魏延が漢中太守に抜擢される。
諸葛亮に、長安を一気に攻める策を提案するが、受け入れられず。
234年 第5次北伐の中、諸葛亮が病死すると、撤退することになり殿軍を受けもつ。その際、仲の悪い楊儀と対抗して軍律をおかす。
董允や蔣琬らは、魏延が反逆したと判断し、魏延は討ち取られる。
背景に武官と文官の対立があったようだ。
🔵廖化 ?~264年
襄陽の出身で、関羽に仕える。
219年に関羽が敗死すると、呉に仕える。
劉備の家臣に戻りたくて、自分は死んだと噂を流し、蜀へ行く。
その後は、諸葛亮の参謀として活躍。
263年 魏軍の来攻時は、張翼らと姜維の救援に向う。
蜀の滅亡後に病死した。
🔵劉封(りゅうほう) ?~220年
劉備の養子になる。
219年 上庸を攻撃する孟達の救援に行き、上庸太守の申耽(しんたん)と弟の申儀を降伏させる。荊州の西北部を占領。
この時、関羽の援兵の派遣要請を断わり、関羽敗死の一因を作る。
魏に寝返った孟達、魏の将軍の夏侯尚、徐晃に攻められ成都に逃げたが、敗戦の罪を問われて殺される。
🔵霍峻(かくしゅん) 177~217年
荊州・南郡の出身。
劉表に仕え、曹操が進攻してきた際に劉備につく。
ちなみに荊州の者で、劉備の徳をしたって従った者は沢山いて、向郎、向寵、蔣琬、伊籍、馬良、馬謖、陳震、鄧方、輔匡(ほきょう)、張存、習禎(しゅうてい)らがいる。
益州攻撃の際は、漢中の張魯の抑えとして、葭萌関(かぼうかん)を守る。
一年の間、数百人で一万の兵の攻撃をしのぐ大功をあげる。
息子の霍弋(かくよく)は、永昌と建寧の太守になり、蜀の南西部の統治をずっと担当した。
🔵黄権 ?~240年
益州・巴西郡閬中(ろうちゅう)の出身。
初めは劉璋に仕える。
劉璋が劉備を招こうとした時、「劉備は危険だ」と進言するが容れられず。
劉璋が降伏するまで城を守り、男を上げる。
215年 曹操が張魯を破った際、いち早く漢中攻略を進言する。
221年 劉備の征呉では先鋒を願い出るが容れられず。
222年 呉への東征で大敗した時に、やむなく魏に降る。
黄権が魏に降ると、蜀の役人は黄権の妻子の逮捕を願った。
だが劉備は、「私が黄権に背いたのであって、黄権が私に背いたのではない」と言って却下した。
🔵法正 176~220年
雍州・扶風郡の出身。
196年頃 同郡の孟達と共に、飢饉を避けて益州へ移住。
張松と親しくなり、劉璋の無能を嘆いていた。
劉備への使者をした際、その人物に惚れこみ、劉璋に「張魯を討つべきだ」と進言して、劉備を招くことを採用させる。
そして劉備に会い、益州を奪うように促す。
劉備が益州を平定すると重用され、217年に漢中進攻を提案して採用される。
漢中攻めで活躍。
220年に病死した。
🔵張松 ?~?年
208年 曹操が荊州に攻め入った時、劉璋の命令で機嫌取りの使者として曹操に会う。しかし曹操は驕り高ぶっていて、ろくに対応しなかった。
張松は曹操を見た結果、「劉備の方が良い」と劉璋に報告し、自ら劉備に接触。
法正と組んで、劉備を益州に招いた。
🔵孟達 ?~228年
雍州・扶風郡の出身。
196年頃に、法正と共に益州へ移住。
211年 劉璋から劉備への使者として荊州に入り、そのまま江陵に駐屯する。
219年 劉封と共に上庸を攻め落とす。
その後、関羽の出兵依頼を断わり、敗戦のきっかけを作る。
220年7月 魏に降る。曹丕に高く評価され、房陵、上庸、西城の3郡を任される。
曹丕が死去し、親しかった桓階、夏侯尚が死ぬと、魏にいる事に不安を持ち、諸葛亮と接触する。
228年1月 蜀に寝返ったところ、司馬懿が急襲してきて敗死する。
🔵李恢(りかい) ?~231年
益州・建寧郡の出身。
214年 董和に推挙されて成都に向かう。
だが途中で劉璋は負けると考え、劉備に会いにゆき配下になる。
馬超が羌族に身を寄せているのを劉備が知ると、李恢に「馬超を味方にするように」と命じるが、見事に成功する。
221年 益州南部を統括していた鄧方が死に、後任となる。
225年 諸葛亮の益州南部の討伐戦に従軍し、西路を諸葛亮と共に担当する。そして故郷の建寧を平定する。
その後は、たびたび背く諸郡を討伐し続けた。
🔵馬忠 ?~249年
益州・巴西郡閬中の出身。
若い頃は狐篤という名だった。
214~220年の間に、仕官する。
222年 蜀軍が呉への東征で大敗した時に、援軍で駆けつけて、劉備に見出された。
蜀漢は、実際のところ益州・北部、現在の四川省一帯しか支配しておらず、南部は少数民族が割拠していた。
この割拠勢力が、劉備の死後に一斉に蜂起した。
225年 南征において東路を担当する。牂牁郡(しょうかぐん)の朱褒を降す。
233年 劉冑(りゅうちゅう)の反乱を平定。
独立していた越嶲郡(えつすいぐん)を降して、安南将軍に任命される。
🔵李厳 ?~234年
荊州・南陽の出身。
劉表に仕えていたが、曹操の来攻の時に益州へ移住し、劉璋の下で有能をうたわれる。
劉備が益州を攻めると、すぐに降伏。
231年 第4次・北伐で兵站をまかされるが、「雨で輸送がままならない」と報告した事で諸葛亮は退却する。
この件を罪に問われ、色々と弁解したが免官になる。
🔵蔣琬(しょうえん) ?~246年
荊州・零陵郡の出身。
諸葛亮に見出され、227年に孔明が漢中に出張した際は、張裔(ちょうえい)と共に丞相府の事務をこなす。
諸葛亮の外征時に兵站を担当したが、いつも見事だった。
諸葛亮から後継ぎに指名され、諸葛亮の死後は内政、軍事の最高責任者になる。
238年 呉と協力して魏を攻撃する計画を練るが、病のため中止する。
246年 病死する。
🔵費禕(ひい) ?~253年
荊州・江夏郡の出身。
幼くして父を亡くし、叔父に連れられて益州に移住。
221年 董允と共に劉禅の属官になる。
諸葛亮に見出され重用される。
呉への使者となり、孫権に気に入られる。
227年 諸葛亮の参謀となり、魏延と事務長・楊儀の犬猿の仲を取り持つ。
245年 蔣琬の後を継ぎ、内政、軍事の最高責任者に。
姜維は度々、羌族を味方にして魏に攻めようとするが、費禕はこれを認めずに1万以下の兵しか任せなかった。
253年1月 魏の降将・郭循に刺殺される。
🔵姜維(きょうい) 202~264年
涼州・天水郡冀県の出身。
238年 第一次・北伐で諸葛亮は祁山に兵を進めたが、天水・南安・安定の3郡は降伏した。
姜維は天水太守に仕えていたが、天水が降伏する前に蜀になびくのではと疑われ、行き場をなくして諸葛亮に降った。
馬謖のミスで蜀軍が敗戦すると、諸葛亮に従い蜀の成都に入った。
魏領にいる母とは生き別れになる。その後、諸葛亮に重用される。
253年に費禕が死ぬと、253年~257年まで5年連続して魏に出兵する。
255年の出兵では大勝するが、それ以外は戦果なし。
連続出兵で民が疲弊し、怨みの声も上がる。
263年 魏が攻めてくると、沓中(とうちゅう)の剣閣で鍾会の軍を防ぐ。
蜀の降伏後、鍾会に反乱をうながし、後に鍾会を殺して蜀を復活させようと計画するが失敗。殺される。
🔵王平 ?~248年
益州・巴西郡の出身。
もとは漢中の少数民族の豪族である朴胡(ぼくこ)に従っていた。
漢中が曹操のものになると曹操に仕えたが、のちに劉備に降った。経緯はわからない。
228年 第一次・北伐では馬謖に付属し、水汲み場から遠い山上に布陣するのを何度も諌めたが、容れられなかった。
王平はこの時の退却戦で活躍し、五部の兵(少数民族の外人部隊) の統率者に抜擢される。
234年 諸葛亮が病没し、魏延の乱が起きると、魏延を斬る活躍を見せる。
その後、漢中を守る呉懿の副将になる。
244年 曹爽が十数万の大軍で漢中に攻めてきたが、守りを固めて、曹爽は何もできずに退却。
王平は学がなく、字も読めなかった。248年に病死。
🔵鄧芝 ?~251年
荊州・義陽郡新野県の出身。
210年頃 益州に入り巴西太守・龐義に仕える。
劉備軍の益州平定後、劉備に見出され、広漢太守に。
さらに成都に行き尚書になる。
223年の劉備の死後、呉は蜀と同盟を結ぶことに難色を示すが、鄧芝が使者となり説得に成功する。
234年の諸葛亮の死後、江州(重慶)の督となり、呉への抑えを担当。
251年に病死。
🔵張嶷(ちょうぎ) ?~255年
益州・巴西郡の出身。
貧しい家の出である。
劉璋に仕え、後に劉備に仕える。
馬忠に従って、少数民族の反乱鎮定をする。
越嶲郡は反乱が多く、半独立の状態だったが、張嶷が太守になり平定した。
費禕が帰順した者を信用しすぎるので手紙で諫めたが、案じたとおり費禕は魏の降将・郭循に刺殺されてしまった。
255年 姜維に従って出陣。魏将の徐質と戦い、戦死する。
🔵劉禪(劉禅) 207~271年
劉備が47歳の時に生まれた子である。
長阪の戦いで母・甘夫人を失い、孫夫人に育てられる。
この戦いで劉禅は、趙雲に救出されている。
211年 孫権は劉備が益州入りしたのに怒り、孫夫人(妹)を呉に戻そうとした。
この時、劉禅も呉に行く計画だったが、趙雲と張飛が狙止した。
劉禅は帝位につくと、宦官の黄皓(こうこう)を寵愛して言うなりになるが、董允が暴走を止めていた。
だが董允の死後は黄皓の専横が続き、姜維も成都を避けるようになる。
263年 攻めてきた魏に降伏。その後は洛陽に移される。
271年に病死。
🔵董允 ?~246年
227年 北伐前に劉禅の補佐を諸葛亮に託されて、宮中に入る。
劉禅が信愛する宦官・黄皓の誤りを咎めて、死去するまで黄皓の地位を上げさせなかった。
(2024年12月22~27日に作成)