タイトル魏が蜀を攻め滅ぼす

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

かつて曹操は、献帝(後漢朝の最後の皇帝)の下で魏王まで昇進したが、司馬昭も魏朝において264年3月に晋王となった。

司馬氏が皇帝廃立などの暴挙を行うのを見てきた朝廷の官吏たちは、王朝簒奪の意図を感じ取り、朝廷には重苦しい雰囲気が満ちていた。

その中で、「竹林の七賢」の1人である嵇康(けいこう)は、友人の呂安に連座して処刑された。

竹林の七賢は、老荘思想を学んだ名士たちで、彼らの逸話は 『世説新語』(せせつしんご)の任誕篇(にんたんへん)に書かれている。

嵇康は、曹操の子・曹林の孫娘を妻にしており、司馬氏の行いに怒っていた。
それで目を付けられ処刑されたのである。

同じく竹林の七賢の阮籍(げんせき)も、苦渋の処世を強いられた。

彼は名門の出で、司馬昭に才能を愛されて息子・司馬炎の妻に彼の娘を望まれたこともあった。

阮籍は不満から酒におぼれ、263年に54歳で亡くなった。

司馬昭は、蜀と呉の征伐を成功させることで名声を高め、魏王朝の簒奪を一挙に実現しようと構想した。

司馬昭はまず蜀を攻める事にしたが、蜀討伐を提示した時、賛同者は司隷校尉の鍾会だけだった。

征西将軍の鄧艾も反対したので、司馬昭は師纂(しさん)を征西将軍府に転出して説得に当たらせた。

司馬昭は、鍾会を司馬望に代えて鎮西将軍にし、長安に置いた。
(※長安は蜀に近い都市である)

263年5月に、蜀討伐の詔書が出た。
8月に18万の魏軍が出陣した。

鍾会は10万余りの兵を率いて漢中に進軍したが、 廷尉の衛瓘(えいかん)が同行した。

蜀(蜀漢)では、沓中にいる姜維の支援に廖化が派遣され、張翼と董厥(とうけつ)が陽平関を守った。

9月に鍾会は陽平関に進軍し、胡烈に関城を攻撃させた。

一方で、鄧艾は姜維を攻撃した。

姜維は退却して、張翼・董厥の軍と合流し、剣門を守ることにした。

10月、漢中を制圧した鍾会軍は、剣門を攻撃した。

鍾会は、合流した諸葛緒(しょかつしょ)を臆病を理由にして囚人護送車に乗せて送り返した。

鄧艾は、剣閣(剣門)を通らずに成都を目指すことにし、山谷を強引に突破して進んだ。

そして諸葛瞻(しょかつせん、諸葛亮の子)と緜竹県(めんちくけん)で戦い、大勝して諸葛瞻を斬殺した。

成都では皇帝の劉禅が、どうすべきかを臣下たちと議論した。

呉に亡命する、南中に逃げる、との意見も出たが、譙周(しょうしゅう)は降伏を説いた。

劉禅は南中に逃げたかったが、臣下たちが降伏でまとまったので、鄧艾軍に降伏を伝え士民簿を提出した。

その士民簿によると、蜀漢の人口は94万人、兵士は10万2千人、官吏は4万人だった。

263年11月に、蜀漢は2代43年で滅亡した。

姜維は劉禅の勅命により、鍾会に降伏した。

なお蜀漢を攻めている間に、魏の首都・洛陽では司馬昭が晋公に昇進し、郭太后が死去した。

263年10月22日に司馬昭は、晋公に昇進するだけでなく、かつて蕭何(※漢の丞相、劉邦の側近だった人)が就いた相国(しょうこく)に官位を進め、九錫(きゅうしゃく)が与えられた。

九錫とは、皇帝に準ずる9つの特権で、前漢末に王莽(おうもう)が禅譲の前触れとして初めて入手したものだ。

263年12月に、司馬氏に利用され続けてきた郭太后が死去した。
死因は分かっていない。

郭太后の命令は長い間「令」だったが、晩年は司馬昭の強い勧めで「詔」と称した。

264年1月1日に元帝(魏の皇帝)の勅命が出て、鄧艾を囚人として召喚するとの命令だった。

これは鍾会と衛瓘が連名で、「鄧艾に謀反の疑いあり」と報告したからだ。

成都に入った鄧艾は独断で、劉禅ら蜀の君臣に官位を授けていた。

司馬昭は、長安にいる賈充を蜀に向かわせ、自らも元帝を奉じて長安に進軍した。

司馬昭は魏での反乱を防ぐため、曹氏の人々がいる鄴に山濤を派遣し、曹氏の人々を監視させた。

鍾会は、衛瓘を成都に送り、鄧艾の逮捕に当たらせた。

衛瓘は夜中に成都に入り、朝早く鄧艾の寝室を襲って逮捕した。

1月15日に鍾会は成都に入り、鄧艾は囚人として洛陽に送還された。

成都に入った鍾会は、謀反を決意し、姜維に5万の兵を授けて先鋒とした。

1月16日に鍾会は、「先月に亡くなった郭太后の遺命として、司馬昭を廃する」と宣言した。
そしてこの謀反に反対する者は監禁した。

帳下督の丘建という者から、「魏軍の諸将を皆殺しにする準備を鍾会が進めている」と聞いた監禁下にある胡烈は、成都城の外にいる息子・胡淵(こえん)に連絡し、この情報を知らせた。

胡淵はこの情報をすぐに広めて、諸将と共に成都城に突入した。

鍾会は監禁中の諸将を殺そうとしたが、将たちは屋根伝いに脱出し、城内に突入してきた兵士たちと合流した。

鍾会や姜維たちは殺され、蜀漢の皇太子だった劉璿(りゅうしゅん)も殺された。

混乱の中で成都は略奪の場となり、死体が各所に散らかった。

衛瓘がようやく数日後に兵たちの略奪を止めた。

衛瓘は、鍾会と結託して鄧艾を陥れたので、鄧艾が解放されるとまずいと思い、命令を出して鄧艾父子を追わせて緜竹県の西で殺害した。

264年3月27日に、劉禅は魏から安楽公に封じられ、洛陽で暮らすことになり、晋朝になってから271年に65歳で亡くなった。

(2025年3月6日に作成)


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