(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
264年3月19日に、司馬昭は晋公から晋王に昇進し、封地は20郡に増えた。
司馬昭は特権をさらに増やし、妻を王后と呼ばせて、嫡男の司馬炎を太子と呼ばせた。
司馬昭は、魏王朝を廃して新王朝を立てる準備として、爵位をばらまいて人気を取ることにした。
264年5月1日に裴秀(はいしゅう)の建議で、司馬昭は「五等爵」を上奏した。
これは7月に施行されたと思われる。
「五等爵」とは、公(郡公と県公)、侯(郡侯と県侯)、伯、子、男の爵位を作ることである。
この爵位をもらうと食邑(しょくゆう)が与えられた。
この爵位は、五品官以上の高官たち600余人に与えられた。
ちなみに建議した裴秀は、済川(せいせん)県侯(食邑1400戸)に封じられた。
宮崎市定氏は著作『九品官人法の研究』で、こう述べている。
「司馬昭の王朝簒奪が目前に迫る中、五等爵は本領安堵のお墨付に外ならない。晋朝になっても、旧魏朝の貴族たちは逆わない限りその地位を失わないから安心しろ、ということだ。」
五等爵は、魏朝の成立直前にできた九品官人法と、成立事情が共通していた。
なお、この年は屯田兵が民屯のみだが廃止された。
屯田官(屯田政策)は魏朝の根幹の1つだったから、その廃止は魏の要素の払拭もあっただろう。
なお軍屯も含めた屯田全体の廃止は、 呉を攻め滅ぼし天下統一した後に行われた。
司馬昭は、禅譲による王朝交代を目指す中で、野営先で265年8月9日に亡くなった。55歳だった。
長男の司馬炎が後を継ぎ、晋王と相国の地位を継いだ。
司馬氏について、呉の張悌(ちょうてい)はこう評している。
なお張悌は呉の丞相になり、攻めてきた晋軍と戦って戦死した人である。
「魏の曹操は、征伐(戦争)ばかりで、民は懐かなかった。
曹丕と曹叡も、曹操の残虐なやり方を継いで、宮殿を造り、征伐に東奔西走して平穏な時はなかった。
司馬懿の父子は、施策を講じて人々の苦しみを救っており、民心を得ている。
だからこそ淮南で3回も反乱が起きたが、(魏の首都)洛陽に騒擾はなかった。
(皇帝の)曹髦を(司馬昭が)殺した時も、地方は動揺しなかった。
司馬氏は人心を得ているから、王朝簒奪の姦計も立てられる。」
(2025年3月7日に作成)