(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)
董卓は、字を仲穎(ちゅうえい)といい、涼州・隴西郡の出身である。
三国志を編んだ陳寿は、董卓を「極悪非道の男で、過去にこれほどの悪人はほとんどいない」と評している。
三国志に注釈した裴松之も、「董卓は政権を盗みとってから死ぬまでの3年未満に、その害毒は四海の果てにまで流れた」と評している。
董卓の父・菫君雅(とうくんが)は、県の尉(警察署長)だった。
董卓は若い頃は遊侠の道に入り、地元に住む羌族(チベット系の遊牧民)と暮らし、羌族の顔役たちと交際した。
董卓は腕力にすぐれ、武芸に秀でていた。
後漢の桓帝の末年に、董卓は皇帝の近衛兵に選ばれ、張奐(ちょうかん)の并州征伐に従軍した。
この時に戦功を立てて、縑(きぬ)9千匹を褒美としてもらったが、すべて部下に分け与えている。
若い頃の董卓は、部下を大事にする侠気にあふれた男だったようだ。
その後の董卓は20年ほど漢朝の下で、地元の涼州にいる羌族と胡族の討伐に従事した。
異民族を武力で従わせる軍人として働いたわけだ。
彼は羌族・胡族が反乱して長安の都が危うくなった時、その鎮圧にあたり、戦果をあげて前将軍に昇進した。
188年に董卓は、宮内庁長官に任命され、中央政府(首都・洛陽)に召されたが、これを断わった。
翌年には并州の牧に任命されたが、これも拒否した。
漢の朝廷は、董卓が軍閥として力を付けたので地元から引き離そうとしたのだが、董卓は拒否したのである。
しかし翌189年に大将軍の何進から洛陽に来るよう命じられると、これに応じた。
何進(かしん)は、字を遂高(すいこう)といい、庶民の出である。
彼は、妹が皇帝(霊帝)の愛人となり、さらに皇后に選ばれたことで、大将軍にまで出世した。
霊帝が亡くなると、何進の妹は何太后となり、その子供(劉辯、りゅうべん。この時13歳くらい)が皇帝(少帝)になった。
何進は、甥っ子の劉辯が即位すると、権力を握る宦官たちをすべて殺そうと謀り、司隷校尉の袁紹と密談した。
何進は何太后にこのクーデター計画を相談したが、何太后は許可しなかった。
そこで董卓の武力を使おうと考え、呼び寄せることにし、董卓に宦官誅滅の上奏文も提出させた。
董卓の上奏文は『典略』に載っているが、こんな内容である。
「黄門侍郎の張譲(ちょうじょう)らは、皇帝を操り、洛陽の近くにある諸郡の美田をことごとく所有しています。
そのため人々は怨み、賊が蜂起しています。
私が勅命で匈奴(きょうど)の於夫羅を征伐した時、将兵は飢えに苦しみ、洛陽に行って宦官を殺したいと私に言いました。
私は彼らを何とか手なずけて匈奴征伐をしたのです。」
袁紹は、宦官誅滅のクーデター計画に友人の曹操を誘った。
だが曹操は、「宦官の罪は元凶を誅すればすむことで、董卓ら軍閥の力を借りるまでもない」と言って断った。
何進に対して、侍御史の鄭泰や尚書の盧植は「董卓は危険な人物で、招いてはなりません」と忠告した。
だが何進は聞き入れなかった。
また皇甫嵩の甥・皇甫酈(こうほれき)は、「董卓を誅滅しましょう」 と進言したが皇甫嵩は従わなかった。
何進のクーデター計画は事前に漏れて、董卓が洛陽に着く前に何進は宦官たちに殺された。
クーデター計画に加わっていた袁紹と袁術は、自分たちの身が危ないと考え、先手を打って皇帝の後宮に兵を率いて乱入し、2千人を超す宦官を皆殺しにした。
宦官の頭である中常侍の段珪と黄門侍郎の張譲は、皇帝(少帝)とその腹違いの弟(陳留王)を連れて逃げ出した。
督郵(とくゆう)の閔貢(びんこう)が後を追い、刀を抜いて襲ってきたので、段珪と張譲は観念し、黄河に身を投げて自殺した。
この時、董卓は軍勢を率いて洛陽に着いたところで、皇帝らの一行を見つけた。
董卓が話しかけたところ、少帝は恐怖で泣いたが、陳留王はしっかり返答したので、董卓は皇帝を陳留王に替えようと思ったと『献帝紀』にある。
董卓の軍は3千人にすぎなかったが、何進の部下たちを吸収して人数を増やした。
さらに董卓は、自分と同じく何進に召聘されて執金吾(洛陽の警備司令官)に就いている丁原、その軍にいる武将・呂布に目を付けた。
董卓は呂布に、「丁原を殺して私の配下になれば、騎都尉に取り立て、養子にもする」ともちかけた。
呂布は話に乗り、丁原を殺して董卓の養子になった。
これにより丁原が率いていた数万の兵が董卓のものとなった。
騎都尉の鮑信(ほうしん)は、袁紹に対し「董卓を襲撃して捕えましょう」と提案したが、袁紹は動かなかった。
これを見て鮑信は郷里の泰山県に帰ったが、直後に袁紹も司隷校尉を辞職して冀州に逃れた。
189年9月に董卓は、少帝を廃して陳留王を皇帝にすることを、朝議で提案した。
その前に董卓は、司空の劉弘を免職に追い込み、自分が代わりに司空に就いて、さらに太尉(軍務大臣)にも就いていた。
尚書の盧植だけは、この提案に反対した。
董卓は盧植を殺そうとしたが、蔡邕(さいよう)と彭伯がいさめて思い留まらせた。
盧植はこの件で引退し、隠棲してそのまま亡くなった。
董卓が帝位に就けた陳留王は、霊帝の末子で、この時10歳だった。
これが漢朝の最後の皇帝となった献帝である。
同じ9月に董卓は、何太后を処刑すべきと主張し、毒薬を盛って何太后を殺した。
同年10月に董卓は、相国に昇進し、郿侯の爵位も得た。
董卓政権は、黄琬を太尉に、楊彪を司徒(しと)に、荀爽を司空に任命した。
この3人はいずれも名門の出身である。
3人を推挙したのは、尚書の周毖(しゅうひつ)と、城門校尉の伍瓊(ごけい)らだった。
周毖らは各地の長官も推挙し、韓馥(かんふく)が冀州牧に、劉岱が兗州刺史に、孔伷(こうちゅう)が予州刺史に、 張邈(ちょうばく)が陳留太守に、張咨(ちょうし)が南陽太守に任命された。
ところが韓馥たちは、着任するや董卓討伐軍を結成した。
このため周毖や伍瓊は、董卓に斬殺された。
董卓は権力を一身に握ったが、疑心暗鬼だった。
そのため侍御史の擾竜宗(じょうりゅうそう)が剣を外さずに自分の所に来た時、叩き殺してしまい、洛陽中を震え上がらせた。
(2025年3月25日に作成)