(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)
190年1月に袁紹や曹操らは、董卓の討伐を目的に連合軍を結成した。
勃海(ぼっかい)太守の袁紹が盟主となった。
連合軍は兗州の酸棗(さんそう、洛陽の東にある)に集まり駐屯した。
これを知った董卓は、前皇帝の劉辯(りゅうべん)を毒殺した。
董卓は首都・洛陽では防げないと考えて、自らの出身地である涼州に近い都・長安への遷都をもくろんだ。
遷都を議題にした朝議で、司徒の楊彪は「民衆が動揺し反乱のきっかけになります」と言って反対した。
董卓は激怒し、「民衆などどうでもいい。どっちつかずの態度をとる者がいたら、私が大軍をもって駆り立ててやる」と、どなった。
大尉の黄琬が諫めたが、董卓は朝議を打ち切り、楊彪と黄琬を罷免した。
楊彪がクビになると、後任に王允が就いた。
190年2月に遷都は強行されたが、洛陽の富豪は董卓により殺され、その財物は没収された。
民衆は長安に行く間に飢えに苦しんだり略奪にあい、死体が路に満ちたという。
董卓は洛陽に残ったが、戦況が厳しくなると洛陽をことごとく焼き払い、長安に撤退した。
洛陽では、鶏や犬の鳴き声まで聞かれなくなった。
洛陽を去る前に、呂布に命じて漢朝の皇帝や公卿のたちの墓をあばき、宝物を略奪した。
他にも董卓は、袁紹への憎悪から、太傅の袁隗(えんかい)や太僕の袁基ら、袁氏の一族50余人を殺した。
一方、董卓討伐のため集まった諸軍(連合軍)は、あえて函谷関(かんこくかん)を越えて洛陽に向かう者はいなかった。
曹操だけは西に進軍したが、汴水(べんすい)のあたりで徐栄の軍と遭遇し敗れた。
この戦いで曹操は矢傷を負った。
袁紹ら諸将は、軍隊を率いる能力に欠けていて、劉岱と橋瑁は仲間割れする始末だった。
これを見て董卓は、190年6月に袁紹と袁術に対し解譬使(かいひし) を派遣した。
これは、降伏させて中央政府の官界に戻るのをうながす使者である。
バカにされたと怒った袁紹は、王匡(おうきょう)に命じて、使者として来た胡母班、呉脩 (ごしゅう)、王壊を殺した。
袁術のところに来た使者の陰脩(いんしゅう)も殺され、徳名の高い韓融だけは死を免れた。
遷都後に董卓は、新貨幣をつくった。
それまでの「五銖銭」(ごちゅうせん)を全て回収して鋳つぶし、表面に何の刻字も紋様もない粗雑な銅銭をつくった。
この新しい銭は信用されず、貨幣価値が暴落して、物価が高騰した。
191年2月に、袁術の配下の孫堅が、ようやく洛陽に入った。
だが住民はなく、焼け野原である。
孫堅は漢朝の破壊された墓たちを修復すると、引き揚げた。
同じ191年2月に、董卓は太師に任命された。
これは幼い皇帝の教育係で、最高の名誉職だった。
董卓の一族の出世し、弟の董旻(とうびん)は左将軍に、兄の子の董璜(とうこう)は侍中と中軍校尉になった。
孫娘の董白までが領地を与えられた。
董卓の一族は、長安から西に113kmほど行った郿(び)に住んだ。
そこは北西に岐山があり、もう涼州に近い。
郿には30年分の穀物が蓄えられた。民震からしぼり取ったものである。
他にも洛陽で奪ってきた財宝も置かれた。
董卓はある時、反乱を鎮圧して降伏者を数百人捕えた。
董卓は朝臣たちを従えて酒宴を開くと、その場で降伏者たちの舌を切ったり、手足をばらばらにしたり、目をくり抜いたりして、それを大鍋に入れて煮た。
痛みで苦しむ者がテーブルの間を転げ回り、酒宴の参加者たちは慄然として箸をとり落としたが、董卓だけは平然と飲み食いを続けた。
この蛮行は、参加した朝臣たちへの脅しだろう。
董卓の心には、孤独と猜疑心がとりついていた。
恐怖政治の下では、人々に互いに誣告し合うことになる。
誣告による冤罪の死者数は、4ケタにのぼった。
董卓の政治に怨嗟が高まる中、司徒の王允を中心にして、黄琬、士孫瑞(しそんずい)、楊瓚(ようさん)がクーデターを計画した。
王允は、何進が宦官を皆殺しにするクーデターを計画した時に参加した過去を持ち、漢朝への忠義者を自任していた。
この時ちょうど、董卓の養子である呂布は、董卓に脅えていた。
呂布は、怒った董卓から小戟を投げつけられた事があり、また董卓の侍女と密通していたので、いつか自分も粛清されると恐れていた。
王允と呂布は出身地が近く、親しくしていたので、王允は董卓を殺すクーデター計画を打ち明けた。
呂布は「私と董卓は父子の間柄です」と断わったが、王允は「君と董卓の血はつながっていない。君に小戟を投げつけた男に父子の情などありはしない」 と説得した。
呂布はクーデター計画への加担を決めた。
192年4月、董卓が宮廷に向かう際、呂布は自分と同じ五原郡出身の李粛に命じて、董卓を襲わせた。
董卓は用心深く礼服の下に鎧を着ていたので、李粛の槍は通らず、董卓は傷を負って転がった。
董卓は「呂布はどこにいる」と叫んだ。
呂布は士孫瑞が書いた詔書を持っており、それを取り出して叫んだ。「詔書によって賊臣を討つ」
董卓は呂布をにらみつけ、「庸狗(ようく、愚かな犬の意味)、かくの如くなるや」と罵ったが、その時に呂布がぐさりと刺し殺した。
董卓暗殺が郿に知らされると、兵士たちが董旻や董璜(とうこう)といった董卓の一族に襲いかかり殺した。
董卓の母(90歳)も襲われ、「どうか私をお助け下さい」と懇願したが斬り殺された。
董卓の死を知った長安の人々は、万歳を唱えて歌い踊った。
董卓の死体は長安の市場にさらされた。
董卓の部将である李傕(りかく)と郭汜(かくし)は、陳留・潁川で戦っていたが、董卓暗殺を聞くと長安に戻ってきた。
李傕・郭汜軍は呂布軍を破り、王允とその妻子を血祭りにあげた。
呂布は逃亡した。
これが192年5月で、李傕らは董卓の死体を焼いた灰を集めて、郿城に葬った。
その後、196年までは李傕と郭汜が朝廷を思うままに動かした。
(2025年4月3&9日に作成)